化け物が、咆哮した。
 そして爪が深く食い込んだ木製の扉をもぎ取り圧し折って、腕を振るう。
 おもちゃかなにかのように中庭へと投げ捨てられた扉が、悲鳴を上げて粉々に砕けた。
 その、化け物の向こう。
 写生帖を抱えた少女が扉の破壊された部屋へと、ぎっ、と無表情だったそれまでとはうって変わった激しく燃える淡い緑の双眸を向け、食いしばった歯のすきまから、
「そこに……いるのかっ……にくらしい、吸血美少女めっ!」
 どす黒い憎悪に満ちた声音を吐いた。
 しかし、
「…………えぇ……っと、つっこんでいいのか、これ」
 痛みと緊張のなかだというのに、ジュリアンはつぶやく。
 いや、こんなときだからこそ、というべきか。
「誰か教えてやれよ。それ、貶してないぜ、って。っつーか、俺が教えてやるべき?」
 敵であるらしいどこかの誰かに確実に毒されている、と思ってもしかたがない少女の発言に、やっぱりまだ子どもなんだなぁ、とこんな場合だというのに妙に感心した。
 いや、それよりも。
「はぁい、いるわよぉん」
 などと、その『吸血美少女』は暢気に返事をしていてもいいのか。
 こちらからは死角であるが、扉を失ったことによりルーが隠れていた部屋のなかには陽光が雪崩れ込んでいるだろう。
 吸血鬼(ヴァンピル)は陽光に焼かれて灰になる。
 それは子どもでも知っていることだ。
 現に、ルーはきぐるみを纏って現れた。やわ肌に陽光は禁物だ、と言って。
 無事なのだろうか。暢気な返事は、彼女なりの強がりなのか。
 だが、
「かくれていないででてこい、めぎつねっ!」
「ざぁんねん。わたしは狐(ルナール)ではなく、狼(ルー)だ」
 甲高く叫んだ少女の声を揶揄するような明るい声がし、その直後、石床と水平に銀の閃光が飛んだ。
 そして、力のない餌は置いてまずは邪魔な敵から片付けようと、ぐるり、と魔物が部屋のなかを向き直る。
 その、とたん。
「……え」
 思わずジュリアンが瞠目したのも無理はない。
 ぐるり、と扉へと向き直ったのは、化け物の上体だけだったのだから。腹から下は先ほどと同じ方向に向いたままなのだ。つまり、
 分断されたのだ。
「マリアンっ!」
 気付いた少女が、悲鳴を上げた。
「……マ、マリアン……?」
 おそらくは、この化け物のなまえなのだろうが、あまりにも不似合い。
 呆気にとられているそのうちに、化け物の上体だけが勢いあまってそのまま重たい音を立てて床に落ちた。
「まったく、よくもこう醜い化け物ばかりを描くものだな、おまえは。どうせなら美しいものを描けよ」
 呆れたように言いながら部屋から悠々と歩みだしてきたのが、白い犬のきぐるみ。
 わざわざまた着込んだらしい。
 足音も立てず歩んでくるルーが、すい、と脇を通り過ぎると、鋭い刃の一閃によりまっぷたつに切断された化け物が塵となって霧散した。それを見て、
「だまれ、にくらしいおおかみ! ずたずたにひきさいてやるっ!」
「そのまえに、おまえは絵の勉強をしろ。なんなら、特別に無料でモデルになってやるぞ? ほら、描け。遠慮はいらん」
 無表情でも愛らしかった顔を憎悪に赤く染めて叫ぶ少女をまえに、きぐるみを纏ったルーがしなを作ってみせる。
 ちなみに、少女はちゃんと「狼」と言い直していた。性格は素直であるらしい。
「いらない! おまえはミラのおともだちをいっぱいだめにして、リーナのじゃまをする! おまえなんかだいっきらいだっ!」
 叫んだ少女がふたたび写生帖にパステルを走らせようとするが、しかしそれは途中で止められた。
 すらり、と銀色の切っ先がその幼い喉もとに突きつけられたからだ。
 きぐるみの前足で器用に剣を操って、ルーはかぶりものの下から低い笑み声をこぼす。
「そうか、残念だな。わたしは案外おまえのことを気に入っていたのだが、そう言われてはしかたがないな」
 見かけは、ふんわりとした毛並みのつぶらな瞳をしたきぐるみ。
 だが、発せられたその声音を聞いたとたん、背筋に冷たいものが流れた。
 それは、凄まじい殺気に満ち満ちたものだったのだ。
「おい、吸血鬼(ヴァンピル)! その子はまだこどもだぞ!」
「黙れウスノロ」
 とっさに声を上げるが、冴え渡る声に切り捨てられる。
「ろくにおのれの身も守れない未熟者が、わたしに意見するな。鼻血出してるくせに」
「鼻血っ? だ、誰のせいだっ!」
「ジュリアン、言ったろう。うかつに血を流すな、と。おまえの血は甘い匂いがする。だが……鼻血はちょっと啜りたくない気分?」
「俺が知るかっ!」
「そんなわけでな、ミラ。大嫌いだと言われてしまったからには、もう容赦はできない。覚悟をしろよ」
「どんなわけだ!」
「……いちいちうるさい男だな、おまえは」
 ちっ、と舌打ちしたルーが億劫そうにこちらをつぶらな瞳で見やった。
 その隙に、ミラと呼ばれる少女が身を翻す。
「あっ!」
 無防備にこちらに背を向けて、仔うさぎのように幼い足で懸命に走っていく。
 あれではすぐにルーに追いつかれて斬り捨てられるだろう。
 だが予想に反して、そのちいさな背を眺めながらルーはくつくつと喉を鳴らした。
「ミラ。帰ったらあのクソ魔女に伝えろ。モデルのおまえがすこぶる醜いから凄絶に美しいルー様に絵を馬鹿にされた、とな」
 すると、くるり、と振り返ったミラが、
「ルーのばかーっ! リーナはぶっさいくじゃないもんっ! クソじゃないもんっ!」
 べえっ、と思い切り舌を出して、そのままどこかへと走り去ってしまう。
 ちいさな姿が消えるまで見送っていたジュリアンは、ややあって長剣を鞘に戻すきぐるみを見やり、
「……なあ、もしかしてわざと逃がしたのか?」
「いや。うっかりおまえのアホさ加減と間抜け面に気をとられた。さっさと鼻血を拭け」
「そのまえに俺に謝れ」
「絶対イヤ。油断したおまえが悪いんだもぉん」
 きぐるみであるからなのか大げさな身振りで謝罪を断固拒否したルーは、つぎの瞬間、そのやわらかい前足でがっしりとジュリアンの首根っこを捕らえた。
「ぐ……ぇ」
 急な圧迫のせいで蛙が潰されるような声を吐いたジュリアンに、ルーは重たげなきぐるみの頭を愛らしく傾げてみせ、
「さて、行こうか」
「な……ど、どこに……っ?」
「棺桶だ」
 どこかうきうきとしたようなその言葉に、目のまえが真っ暗になったのはたぶん、気のせいではない。
 
 

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