扉の外にぽつんと立っていたのは、見たところ十二歳ごろの少女だった。
 肩口で揃えて切られた癖のない栗毛の髪は、やわらかに風に揺れている。そのやさしい風や陽光のなかでさえ、頼りなく解けていきそうにも思えるおとなしげな細い姿の少女は、じっ、と淡い緑色をした硝子球のような瞳で、胸に抱えた写生帖を見下ろしていた。
 まるで人形のように愛らしい、しかし表情のない少女だ。
 周囲を見回すが、彼女の親らしき人影はない。どうやらひとりでやってきたようだ。
「どうしたのかな」
 暗い気持ちをごまかすように、つとめて明るい調子でそう訊ねつつ、腰を屈めて少女の目線に合わせてやる。
 
 油断するなよ。
 
 つい先ほど喉もとへと突きつけられた、言葉の切っ先。
 なんのことはない忠告であるにも関わらずそれが鋭く思えたのは、自分のなかに迷いがあるからなのか。
 
 おまえの血の匂いは、ショコラのように甘い。
 
 そう言って意地悪く細められた青石の双眸の奥は、しかしすこしも笑ってなどいなかった。それどころか、冷徹で凛呼たる光が冴え冴えと湛えられ、どこか神聖ですらあった。
 吸血鬼(ヴァンピル)という魔物であるはずの少女の、その瞳が。
 だからこそ、恐ろしかった。
 彼女の言葉が。
 それに暴かれる、おのれの弱さが。
 傷ついた指先を握りこむと、胸の奥が痛んだ。
 そのとき、妙に耳に残る音をすぐそばに音を聞き、はっ、とジュリアンは軽く瞠目した。
 ちら、と表情のない白い顔を上げてこちらをまっすぐに見据えた少女が、抱えていた写生帖をおもむろに開いたのだ。
「え」
 思わず間の抜けた声を出したのは、少女のその行動のせいだ。
 いや、写生帖を開く行為自体がおかしいのではない、開かれた写生帖に描かれていたものが、異様だったのだ。
「へったくそ……じゃなくて、ええと……すごく上手だねぇ」
 思わず本音が出かけたジュリアンだったが、笑ってごまかす。
 しかし、恐ろしいほどに下手な絵だった。あまりに酷い。
 なにを描いたものなのかはわからないが、これでは昨夜見た醜く凶暴な化け物のようだ。
 ごつごつした表皮に、長い爪、鋭い牙。
 ぎょろりとした濁った色の瞳が、こちらを睨む。
 ほんとうに、よく似ていた。
 すると少女が、さらさらと手に握ったパステルで紙の端に文字を書く。
 誰かのなまえ、だろうか。
 そう思った、そのとたん、だった。
 化け物のようなその下手な絵が描かれた紙が、ぐにゃり、と歪む。
 いや、紙ではない。絵、そのものが、身震いするように動いたのだ。
「な……っ」
 目の錯覚か、と思った。
 だがそれは、不気味に紙の上でうねり、盛り上がったかと思うと、突然、
「っ!」
 ずるり、と紙の端を紙の内側から伸ばされた汚らわしい色の爪で掴み、どす黒く醜い巨体を引き上げたのだ。
 にやり、と。
 現実にかたちを持ったその化け物の背後で、少女がちいさなくちびるを笑みに歪めていた。
「魔女……っ!」
 ようやく気付き瞠目すると、ジュリアンのすぐ目のまえで巨体のなかほどまでを現実世界へと引き上げた化け物が、牛のような、しかし腹の底にまで響くおそろしく低い咆哮をずらりと並んだ真紅の口のなかから上げ、爪鋭い腕を振り上げる。
 逃げられない。
 この距離と位置では、確実に頭を潰されるか、裂かれるか。
 風の鳴る音が頭上でした。
 もう、駄目か。
 とっさに、目を閉じた。
 その瞬間込み上げたのは、恐怖。そして、
 
 生きなさい。
 
 忘れられない、光景。
 赤い、記憶。
 そのなかにある、穏やかで強い言葉。
「……っそ!」
 法服の下に隠し持っている銃に手を伸ばしたところで、間に合わない。
 そんなことはわかっている。けれど、抵抗ひとつしないで殺されるなんて、冗談じゃない。
 ジュリアンの青い瞳が、こちらへと爪を振り下ろす化け物を睨み据えた。
 その、直後だ。
 凄まじい音とともに襲った声が出ないほどの衝撃と激痛に、身体が後方へと吹き飛んだのは。
 もんどりうつようにして石床の上を転がり、なぜか特にひどく痛む顔面に呻きながら手をやると、ぬらり、と赤い色が手のひらを汚す。
 しかし、一撃で殺されなかったのは神の奇跡か、と無理やりに身体を起こし、爪を振り下ろしただろう化け物をふたたび睨みつけるために顔を上げたジュリアンは、その光景に一瞬思考を止めた。
 目のまえに聳えていたのは化け物ではない。
 扉だった。
 そこに、深々と化け物のものと思わしき三本の爪が食い込んでいる。
「……な、に」
 わけがわからずなかば呆然とつぶやくと、目のまえの扉が激しく軋んだ。
 おそらくは化け物が爪を引き抜こうとしているのだ。
「馬鹿が。油断するな、と言っただろうが」
 目のまえにある扉のせいで姿は見えなかったが、その声は凛と響く。
 その、呆れたような声音を耳にして、ジュリアンはようやく悟った。
 扉は、さきほどまで自分とルーがいた部屋のもの。
 つまり、この顔面の痛みと出血は化け物の爪によるものではなく、乱暴に開け放たれた扉によるものだ、と。
 
 

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