花に捧ぐの歌



 その歌を耳に捉えることができたのは、偶然。
 身体が鈍っていざというときに剣も振るえないようではただの穀潰しだ、と誰に言われるまでもなくおのれを律し、誰に告げるでもなくひとり密かに続けている鍛錬のあとのことだ。森の向こうから顔を覗かせる朝日の清々しい光とそこに群生する花の香り、心地よい疲労感に包まれて、うとうととしていた。
 朝のやわらかな光を浴びて真珠の色に仄かに輝く、方推形の宮殿。
 首都を見下ろす『蟻塚』と呼ばれる宮殿の三方は、宮殿を仰ぐ建物の群れが美しく糸を張り巡らせ織り上げられた蜘蛛の巣のように規則正しく並んでいる。しかし、宮殿の残る一方。その背後には、広大な森が静かに広がっていた。
 綺翠(キスイ)は、その森を臨む低めの真白い城壁に凭れるようにして、闇のような漆黒の毛並みに覆われた身体を丸めていたのだ。
 国王が不在のいま、自分にそのつもりはなくとも、東の大陸からやってきた剣士は表向きには臣下ではなく賓客扱いとされている。朝食の席にさえふらりと戻れば、何をしていたのかとうるさく聞いてくる者はない。
 ともに氷に閉ざされていた王国カナンリルドへとやってきた友でもある風の魔法使いあたりは、早朝の鍛錬のことなど言わずとも察しているのだろうが、訊ねられたこともないのでわざわざ明かすこともしていなかった。
 だから、人の耳であったなら聞き逃していただろう儚くちいさな歌を聞いたのは、偶然だ。
 いや。偶然などはない、と魔法使いたちは言うだろう。
 すべての事象には理由がある、それに気付かないからこそそれを偶然と呼ぶのだ、とそう言うに違いない。
 だとするのなら、目に見えないなにかが呼んだのか。
 ふ、と朝日を受けて輝く翡翠色の双眸を蜜のように甘く潤ませ、闇色の魔狼の姿のまま綺翠は三角形の耳を欹(そばだ)てた。
 朝日を浴びて淡く煌めきながら森を縫う清流の、そのなかをころころとちいさな音を立てて転がっていく水晶の粒。
 朗々と紡がれる澄んだ高音は、まるで青銀の魔法の花を咲かせるそのときとおなじように神聖で、そして、切ない。
 しかし、魔法を紡ぐときとは違うあまりにちいさな声音に、その歌が誰に聴かせるわけでもなく紡がれたものだと知れる。
 影のようにそっと近づくと、そこに寂しさのようなものが滲んでいることに気付いた。
 つい、と見上げた先に、ちいさな履き物を履いた肉の薄いほっそりとした足が揺れている。
 他国のものに比べると、魔法大国と謳われるカナンリルドの宮殿『蟻塚』の城壁は随分と低い。それでもいったいどうやって細くちいさな身体で城壁に上ったのか、と揺れる履き物を眺めつつ呆れた。
 足もとに現れた魔狼の姿には気付かないのだろう、儚い歌声は続いている。
 悲しげに、寂しげに。
 すべてを吸い込み包み込む星のような漆黒の双眸は、ぼんやりと目覚めたばかりの淡い光に包まれた森のほうへ。
 綺翠はゆっくりと瞬きをすると、黙ってその場に腰を落とした。前足を滑らせるようにして、伏せる。
 そのまままたうたた寝の続きをしようかと前足に顎を乗せるが、しかし、歌声を孕ませる光を絡ませた漆黒の毛並みの先からじわりと胸に滲んできたものは、思うほどに穏やかなものではなかったらしい。
 それは、誰かを想って歌われた歌。
 誰に聴かせるつもりのない、誰かのための歌。
 それに気付けば、ざわりと胸がちいさく騒いだ。
 聞かなければよかったか。
 そう焦れつつも、しかし綺翠はじっと目を閉じた。
 このまま聴いていたくないならば、この場をそっと立ち去ればいいだけのこと。それでもこの場に留まるのは、ただ、ひとりにしておきたくなかったからだ。
 朝日に溶けるわけではない。
 このまま風に消えるわけでもない。
 たおやかな翅を持つ青銀の蝶が、それでもいま、なにもかもを放り出していなくなるわけがない。
 それでも、ひとりにはしたくなかった。
 たとえ影のようなこの姿に気付かれなくとも。
 どれほどに焦れて、耳を塞ぎたくなるのだとしても。
 しかし、
 
「盗み聞きか、犬ころ」
 
 不意に歌が途切れ、かわりに城壁の上から転がり落ちてきた声音に、綺翠は思わず顔を跳ね上げた。
「なにをしている」
 きょとんと首を傾げるしな、艶やかな漆黒の長い髪が華奢な背肩を包む雛罌粟(ひなげし)色の法服の上を優美に滑る。
 名匠の手により生み出された精巧な人形のように白く澄んだちいさな顔が、不思議そうにこちらを見つめていた。
「ただの散歩だ。そういうおまえこそ、なにをしている」
 座り直して鋭い牙の隙間から、唸り声ではなく人の言葉を押しだすと、青銀の炎の魔力を持つ魔法使いは薄紅色のちいさなくちびるを苦笑に歪めるらしい。
「うん、まぁ……なんというか、だ」
 珍しく口ごもって、魔法使いが漆黒に輝く瞳を森へとやる。
「ちょっとした、感傷、というかだな……」
 綺翠は、魔法使いの視線を追って、森を見つめた。
 木立の隙間を埋めるように青紫の小花が群生しているさまが、遠目にも美しい。
 ほんの少しまえまでは、このなにもかもが踏み躙られ、氷に閉ざされていた。
 ゆるやかに戻りつつある森の姿に、失われて戻らないものたちを想うのだろう。
「……この眺めは、女王陛下がお好きだったのだ」
 ふ、と魔法使いが淡く微笑む気配にそちらを見ると、ひどく優しいというのにおなじくらい悲しげな表情がそこにはあった。
 それを見ると、くだらない感情に耳を塞ぎたくなったおのれが情けなくなる。
「こっそりとこうやって城壁に上がってしまわれるほどには、少々、お転婆で。とても可愛らしい方だった」
 にこ、と笑いかけられて、思わず消えてなくなりたくなった。そうして後足が下がりそうになったところを、しかし、
「なあ、綺翠」
 不意に名を呼ばれて、思いとどまる。
「わたしにはそう感じることなど許されないことなのかも知れないけれど、やはり……寂しいよ」
 強大な魔力を持つ最高位の魔法使いとして常は多くの臣下をまとめ凛然と立っているというのに、そうして弱音を吐いて見せるのは、こちらが人の姿ではないからであるのかも知れない。やわらかな毛並みを撫でるときだけは、いつもどこか安らいだ顔をするから。
 けれど、いまこのとき、自分はそれだけではなにか物足りない気がするのだ、と。
 我ながら欲深な、とは思いつつも、それでも珍しい弱音を受け止め支えられる腕が欲しいと思う。
 だから、
「……あぁ、そうだな」
 綺翠はゆっくりと朝日に闇を滲ませ、溶かしていく。
 漆黒のたてがみは、背に流れる頭髪に。身体の構造が、元のつくりに変化する。
 そうして片膝を立てて座った状態から立ち上がり、人の姿に戻った綺翠は少々見上げた位置にある美しい瞳をまっすぐに見つめた。そして、
「だが、いまは、それでいいと思う。ほんとうに許されないのは、寂しいと思うことすら忘れ去ることだ」
 そう言って、すい、と両腕を差し伸べる。
 軽く瞠目する魔法使いに、キリィ、とその名で呼びかけ、
「少し、森を歩こう」
そう、持ちかけた。
 するとわずかの間ためらうようだった魔法使いが、やがて真白い頬を仄かに染め、
「ん」
 おなじように両腕を差し出して、下ろせ、と促す。

 

 

イラスト・鏡花 様 

「どうやって上がったんだ、おまえ」
 羽根のように、とまではいかないまでも、それでもほとんど重さを感じさせない華奢な身体を支えながら問うと、こちらの手がくすぐったいのか魔法使いがちいさく笑い声を上げた。
 淡くも甘い花の香りごと抱えるようにして城壁から下ろしてやると、
「わざわざ箱を積み上げて、そこを上るんだ」
 だがおまえがいると便利だなぁ、とこちらの首に縋りつきながら魔法使いが微笑む。
 そのままくすくす笑いながらも、首にまわした手を解こうとはしない。こちらの肩に白い頬を埋めて、いつまでも顔を上げようとしない。
 だから綺翠は、太陽の蝶と謳われる魔法使いを腕のなかに抱えたまま、ゆっくりと歩き出した。
 やがてちいさな青紫の花が群れ咲くあたりにやってくると、肩に頬を預けたままの魔法使いが、ふたたびちいさく歌いはじめる。
 肩を通して胸の奥へと切なく伝わるそれは、腕のなかの蝶をひどく大切なものだと改めて認識させるもので。
 甘い花の香りと切ない歌とに誘われるようにどこからかやってきた淡い色の蝶を追いやることもせず、ただ黙って、綺翠は森のなかを歩き続けた。
 

  おともだちの鏡花様にいただいた綺翠がキリィを抱っこしているイラストが、偶然にも、脳内には以前からあるけれどかたちにする予定がなかった鳳蝶のイメージそのままで!(いや、炎精の蝶の魔法使いたちにしてみれば、それは偶然とは呼ばないのかも♪ )
 あまりに嬉しくて、文章をつけさせていただいちゃいました(*>ω<*)ゞ
 でも、ちょっと文章がしめっぽくなっちゃったかも? とはいえ、らぶらぶですよ♪
 すごく可愛いキリィとかっこいい綺翠の素敵なイラストで、鳳蝶のテンション、上がりまくりです!
 鏡花ちゃん、ほんとうにありがとうございましたv

 ちなみに、お花はイングリッシュ・ブルーベルです。ブルーベルの森の写真を見たら、このふたりを歩かせてみたくて。いや……抱っこして歩いてますが。あ、ちょっと恥ずかしいぞ?

2011.02.19 鳳蝶

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