よそ
 
 
 
 冴えた冬の夜。
 磨いた鏡のように闇の帳に浮かぶ月は淡く光を放ち、あたりの輪郭を青白く染める。
 足もとの瓦礫、無機質なコンクリートの建物の群れ。青白いそれらは、長く見捨てられた屍のようにも思える。
 どこからともなくひたひたと這い寄り、歩むこちらの両足を掴むのは、見えない闇の手。骨に染みるほどに冷え切った空気だ。
 祈る声のない、廃れた教会。
 半壊したそこからしばらくいったところで、ふとJは足を止めた。
 振り返ると、闇のなかで炯々と光る金色を見つめる。
 すると、いまはひとつきりしか見えないその金色が、ゆっくりと細められた。
「どうかしたの」
 すい、と光沢のある赤紫の長い髪を夜に流して、金の瞳を持つ女はJに追いつく。そして間近からこちらを見上げると、複雑そうな顔だわ、と細い手指で頬の輪郭をするりと撫でて寄越した。
 くす、とかたちの良い薄紅色のくちびるからこぼれるその、どこかしら甘さの滲む冷えた女の笑みに、Jはわずかに眉を寄せる。
 女は、酷く美しかった。
 その人ならぬ凄絶な美貌は、見るものを強く惹きつけると同時に底知れない恐怖を植えつける。誘われるままふらりとうかつに近寄れば、容赦なく命を握りつぶされるだろう、とそう本能が怯えるほどの、禍々しい美貌。
 それはこの女が持つ、一種の力でもある。
 そして、たとえその顔の左半分が包帯の下に隠されていようと、その力はわずかほども隠せるものではなかった。
 それでも女を間近に見つめるJに、恐れはない。
 寒空の下だというのにあまりに薄着であるこの女がなんであるかは、理解している。
 死者を眠りより呼び覚まし、思うままに操る忌まわしき闇の書、
 『死者の舞踏』
 凶暴にして強力な呪文をその身に記した、ひとの女の姿を持つ、魔道書。
 だが、そうであったとしても、Jにとっては共に生きると約した相手なのだ。
 だからこそ、訊ねた。
「……だいじょうぶか」
 ほんとうなら、もっとはやくに訊いてやるべきだったと思う。しかし、ここにきてようやく相手を思いやれるだけの落ち着きを取り戻したのだ。
 そっと氷雪のような肌に手指を伸ばすと、女は右だけが覗く長い睫毛に縁取られた金の瞳に、暗い甘さを滲ませた。
 ゆるやかに開かれたくちびるから細く吐き出された白い息が、こちらの頬を撫でる。
「J。あなたこそ、だいじょうぶ? 眉間に皺、寄っているわよ」
 ここよ、と整った指先に軽く触れられて、Jはさらに眉を寄せた。そのまま肌の色をわずかに透かせる黒の薄布をひらめかせながら首を抱きにきた細い腕をとって、よせ、と首を横に振る。
 確かに、苛立っていた。
 同時に戸惑ってもいる。
「なにを苛立っているのか、聞いてあげてもいいわよ?」
 に、笑みを浮かべて、見透かしたように女が言った。
 それはどこか、その細くしなやかな肢体に記された呪文を発動し嗾(けしか)ける、そのときと同様の、残忍でありながらも妖艶でもあるような、笑み。
 いっそ高慢に細い顎を上げ、誘うように。
 Jは、深々と溜息をついた。
「……さっきの」
「さっきの。赤い瞳が綺麗だったわね、あのぼうや」
 女は不思議な色の長い髪を指先でもてあそびつつ、さっきの、と歌うように繰り返す。
 おそらくは自分とおなじ年頃だろう、ついさきほど出会った男の顔を思い出しながら、Jはふたたび溜息を落とした。
「あのぼうやが、どうかしたの」
 笑みを含んだ声音。
 こちらがなにを思っているのかなど、とうに知っているかのような。
 そして、
「『あれ』と言われたことなら、わたしは気にしないわよ?」
「……俺が、気にする」
「ええ、そうね。でも、しかたがないのだと思うわ。気付いているでしょう? もう、知っているはずだわ、あなたも。ここには人間ではないものがそこらじゅうにいて、人間たちはそれにとても怯えている」
 刹鬼。
 たしかそう言っていたわね、と女がつぶやくように言う。
「わたしを、それと間違えたみたいね。でも、変だわ。あのぼうや、わたしを殺そうとしたくせに、一緒にいた男は人間ではなかった」
「……似たようなもの、なのか」
「どういう意味かしら。わたしたちと、あのぼうやたちが、ということ?」
「ああ」
「それはつまり、ほんとうはほかの誰かがその姿を視界に入れるだけでも許せなくて、いっそこの腕のなかにその愛しい命を屍(かばね)となったあとも永遠に閉じ込めてしまいたいと、そう思うほどに強くどちらかが慕っているということかしら」
 にこ、と美しく微笑む女に、わずか、Jはきょとんと瞬きをした。そして、
「……それ、は……そうなのか……?」
「納得しないほうがいいわよ、J。敵をつくってしまうもの。これ以上、面倒な敵をつくりたくはないでしょう?」
 自分が言ったくせにそれはどういうことだ、とくすくすと笑みこぼす女にJは眉を寄せる。だがそのとき、女をとりまく空気が一瞬にして急激に凍えるのを感じ、とっさに腰に吊ったホルスターに手指をやった。
「そう、敵は少ないほうがいいわ」
 だから、と続ける女の声音に昏い殺気が滲み、細い手指の先でかすかに闇が鳴る。
 右腕に巻かれた包帯が、すい、と夜気に舞った。そして、
「とりあえず、疎ましいだけの邪魔者は早々に片づけましょうか。J、あなたは手を出さなくてもいいわ。わたしがすべて、屠るから」
 物騒な言葉とはあまりにも不似合いな、まるで聖女のような微笑みを浮かべつつ、『喉と腸(はらわた)を食い破る、残忍なる黒き獣』と愛しげに発する。
 とたん、右腕の包帯の下に隠されていた『死者の舞踏』の呪文(スペル)、『喉と腸を食い破る、残忍なる黒き獣』は、目にとまらぬほどの速さで白い肌から浮き上がり螺旋を描くように宙を走った。生き物のように蠢くその黒い文字は宙で凶暴なる獣の形を成し、力強い四肢を地につけると同時に、魂の底に響くほど恐ろしく激しい咆哮を上げる。
 それだけで、じり、と迫っていたいくつかの気配が、消滅あるいは怯えたように後退する。
 漆黒に燃え盛る炎のような鬣(たてがみ)をなびかせ、鋭い刃のような牙をむき出した、狼のような形をとった呪文は、低く唸りながら睥睨(へいげい)した。
「愚かで醜い哀れな蟲たち。さあ、いらっしゃい。この『死者の舞踏』が、あなたたちの汚らわしい血肉を引き裂いて、魂までも踏みにじってあげるわ!」
 

 

 はっ、と振り返る双眸は、真紅。
 人の身でありながらも鳩の血色をした上等の紅玉の色彩を宿した彼は、不意に首のうしろに覚えた独特の痛みに、夜闇のむこうを見据えた。
 ひとつに束ねた明るい薄茶の長い髪が、こちらの肌を引き裂こうとするかのように冷えきった風に遊ばれて、揺れる。
「どうしたんスか、東雲様」
 ほんのすこし遅れてついてきていた眉間に傷の男は、に、とくちびるに笑みを浮かべた。同時に、金の瞳をどこかおもしろそうに細める。
 東雲、と呼ばれた赤い瞳の男は、刹鬼を狩ることを生業としている者の証である銀のタグを月光に光らせつつ、踵(きびす)を返した。
 人間をいたぶり食い殺す人ならぬもの、刹鬼。
 チリ、と首のうしろの痛みは、その気配を教えるものだ。
「なんで戻るんスか」
 その気配を察知したからであると気づいているだろうに、東雲と行動をともにする、彼もまた人ならぬものであるさびは、わざわざ訊ねてくる。
「あのおそろしく美人な金目の女なら、この程度の数はなぁんてことないんじゃないっスかねぇ」
「誰があの女の心配なんかするかよ。俺はただ、刹鬼を斬りたいだけだ」
 鼻を鳴らしつつ、東雲は刀の柄に手を添えた。そして、さびがなにか言葉を返すそのまえに、ひとつ、胸から息を鋭く吐き出して、駆け出す。
 視線の先、夜闇の向こうで蠢くいくつもの人ならぬものの気配に、知らず、口の端が笑みに歪んだ。
 

 

 ぐしゃり、と。
 地面に叩きつけられ重い音を立てたそれは、食いちぎられた四つ目の醜い首。
 飛び散る大量の血が、闇の色に沈む。
 そして、ずらりと刃のような鋭い牙が並ぶ口からそれを吐き出した黒い獣が、つぎの獲物へと踊るように飛びかかると同時に、食いちぎられた刹鬼の血肉が塵となって霧散した。
 その残滓と長く尾を引く悲鳴とが舞うおそろしく凍えた風のなか、艶(つや)やかな赤紫の髪を揺らして、女は、
「力の差も見極められずにただ匂いにつられてやってきて、そしてこうして屠られるだけ。ほんとうにつまらない蟲だわ」
 つまらない、と不機嫌でありながらも上機嫌にも聞こえる言葉を、ゆるやかな弧を描くくちびるから零している。
「……敵は少ないほうがいい、とさっきは言っただろう」
 もっと手ごたえのある相手はいないものかしら、といまにも高らかに笑いだしそうなようすのその背に、溜息まじりの言葉をかけた。
 手を出すな、と言われたためにすこしばかり離れた木のそばで、集まった刹鬼を『死者の舞踏』の凶暴な呪文がつぎつぎに引き裂くさまをおとなしく傍観しているJだ。
 女は、さきほど廃れた教会で、動くな、と言われたことが実のところ相当に不満だったらしく、しぶいた熱い血が瞬時に凍りつきそのまま粉々に割れ砕けるほどに、静かだが激しく殺気立っていた。だから、ホルスターにしなやかな手指をかけてはいるものの、Jは動かずにいたのだ。
 だが、目のまえをちらつく赤の色に、眉を寄せずにはいられない。
「消すしか、ないのだろうか……」
 つぶやくように言うと、残忍にも美しく輝く金の双眸がこちらを振り返った。
 けれど、無言。
 女は振り返っただけで、なにも返さなかった。代わりに、暗い上空から猛禽のもののような鋭い声が降ってくる。
 寒気がするほどに美しい顔の左には、いま包帯は巻かれていなかった。その下に本来記されているはずの呪文も、そこにない。
 すい、と女が包帯の巻かれていない白い右腕を宙に差し出すと、闇を切り裂くように舞い降りてきた青を纏う優雅にして冷酷な呪文が、やわらかな肌を傷つけることなくそこに翼を休めた。
 そして女とおなじ金の瞳で、じっ、と見据えてくる。
「……ねえ、J」
 新たな獲物を見つけた猛禽に似た姿で現出する呪文が、大きく翼を広げふたたび舞い上がったあと、不意に暗く甘い声音に名を呼ばれた。
「あなたはやさしいわ。でも、そのやさしさがいつか……あなたを殺し、わたしを殺すわ」
 その言葉に、はっ、とJが顔を上げて瞠目すると、女は微笑んだ。
「どういう、意味だ」
「そのままの意味よ、J。あなたは知らないけれど、あなたを欲しがるものはとても多い。だから、余計なことは考えないで、わたしのことだけを考えなさい。ほかが入り込む隙などないくらい、その心をわたしだけで埋めるといいわ。ねえ、J」
 ねえ、と白い腕でこちらの首の根をかき抱くような甘さで繰り返す女のその背後では、変わらず咆哮と悲鳴、そして、血しぶきが上がっている。
 あまりに禍々しいその光景を背に、それを繰り広げているはずの女は、ひどくやさしく哀しげに、
「あなたがわたしを守ってくれるように、わたしにもあなたを守らせて」
 困惑しつつもそれでもその言葉に答えようとした、そのとき、
「っ!」
 Jは、背後から近付いてくる殺気に気付いた。
 覚えのある、殺気。鋭い銀閃を見るようだった。
 だから、
「そこにいろ」
 動くな、と女に言う。
 それなのに、歩き出すしな、視界の端にとらえた女の顔は、置き去りにされてひどく傷ついた子どものように、歪んでいた。
 ずき、と胸のどこかが痛むようだったが、それよりももうすぐそこにまで来ている気配に気を逸らせる。
 こちらを追ってきた、というわけではないだろう。
 だとするなら、人ならぬものの気配を感じ取ったのか。
 どちらを止めるべきだ。
 赤い瞳の男のほうか、それとも彼の連れである人ならぬ男のほうか。
 そうわずかに思案する間に、視線の先に赤い光を見た。
「っ!」
 こちらに気付かず目のまえを過ぎようとした影へととっさに腕を伸ばし、ぐい、とそのまま引き寄せると、一瞬鋭く息を飲み均衡を崩した相手が、月光を跳ね返す右腕の得物を振り上げる。それへ、
「行くな」
 短く言うと、滾(たぎ)る血のように赤い双眸が瞠られ、ぴたり、といままさにこちらへと振り下ろそうとした腕を危ういところで止めた。
「な……っ!」
「……危ないぞ」
 血の匂いにであるのか化け物の気配にであるのか、随分と高揚しているらしい相手の気を静めようとなるべく抑えた口調で告げると、短くはない距離を駆けてきただろうにさほど息を乱していないように見える東雲は、彼の左腕を掴むJの腕をいささか乱暴に振りほどく。
「邪魔をするなっ!」
「あんたにあの化け物と呪文の区別がつくのか?」
「そんなものは知るか。俺は刹鬼を斬りたいだけだ!」
「区別がつかないなら、行くな。あんたが怪我をするのは勝手だが、俺はあいつに怪我をさせたくない。あんたに怪我をさせて後悔するあいつも、見たくない」
 そう言って、ひた、とまっすぐに赤い瞳を見つめると、東雲はわずかに顔を歪め、その瞳を揺らすらしい。しかしそれを隠そうとするのか、すぐにJから目を逸らし、闇に舞うように刹鬼を食いちぎり切り裂く黒い獣の姿を見やった。
「あれは、なんなんだ」
「『死者の舞踏』の一部だ。だから、斬られるのは困る」
「だったら、あれ以外を斬ればいいんだろうが」
「……青い鳥も、呪文だ」
「そうかよ」
 に、と東雲がふたたび好戦的な笑みにくちびるを吊り上げるさまを見て、Jはちいさく溜息をつく。ちら、と彼が駆けてきた方へと視線をやると、さきほど鉤爪を首筋に押し当て脅してくれた逞しい体躯の男が、笑みを浮かべながらのんびりと歩いてくるのが見えた。
 金色の、双眸。
 さきほどは色まで気にしてはいなかったが、東雲の連れの男はおなじ色の瞳をしていた。
 『死者の舞踏』とおなじ、瞳の色。
 思わずじっとその色を見つめていたせいで、東雲が駆けだすのに気付くのが遅れる。
「……ぁ」
 止めるべきかとわずかに躊躇うその間に、ぐい、と不意に伸びてきた手指に顎を掬われた。なんだ、と視線を戻したJは、その思いがけず間近にあった金の瞳に、軽く瞠目する。
「よく見ると美人だねぇ、兄ちゃん」
 に、とくちびるを歪めつつ無遠慮に殺気を押し付けて寄越され、ホルスターにかけていた手指を、しかし、Jははずした。
 甘い、と嗤われたとしても、それが自分の命を危うくするのだとしても。
 相手に意思があるのなら。
 人間と行動を共にしているのなら。
 刹鬼の間を駆け、銀閃を走らせては返り血を浴びる東雲の、その姿を視線で追おうと動くと、ぴり、と捕らえられた顎にちいさな痛みが走った。
「兄ちゃん、よそ見してると食われるぜ?」
「……ひとつ、訊きたい。答えたくないなら、答えなくて構わないが」
 なんだい、と殺気を引っ込めたさびは、しかし浮かべた笑みはそのままにJの顎を放し、ちろり、と指先を軽く舐める。
「あんたは人ではないと連れが言っていたが、そうなのか?」
「ああ。俺は刹鬼だ」
「……あんたは人を無差別に襲ったりは、しないんだな」
「襲ってほしいなら襲ってやってもいいぜ」
「遠慮する。だが……変わっているな」
「別に、人間を食う必要なんてないからな」
 そう苦笑しつつ肩をすくめて見せる姿に、そうではない、とJがゆるく首を振りふたたび東雲へと視線をやると、こちらがなにを言いたいのか理解したらしいさびは、く、と喉を鳴らして笑う。
「ああ……刹鬼の俺が、刹鬼と聞きゃぁ目の色変える刹鬼狩と一緒にいるんだ、そう思うのは当然だろうなぁ。でも、あんたらだって、変わっているだろう? あの、おっかないくらい美人な姉ちゃんも、人間じゃない。違うか?」
「あいつは、あいつだ」
「あぁ、そうかい」
 呆れたように逞しい肩をすくめて言われて、Jも苦笑を落とした。自分の言っていることは傍(はた)からすれば無茶苦茶なのだろう。だが、仕方がない。あの女と他とに差をつけてしまうのは、自分のなかにあるどうしようもない甘さだ。
 そしてそれを改めるつもりは、いまのところない。
「刹鬼を……消すしかないのだろうか、と言ったら、あいつに呆れられた」
 ふと気付けば、なぜかそう口にしていた。
 それは、相手が気安い雰囲気を持っていたからであるのか、それとも金の双眸を持っていたからであるのか、それはわからないが。
 だが、他からすれば突然ともとれるその言葉にも、さびは動じなかった。
「ふぅん? そんな風に考えてくれるってのは、俺は嬉しいけどね。そうじゃなかったら、俺たちはこうして喋ってないだろ? でも、まあ、あんたはもうちょっと警戒したほうがいいんじゃないかい? 俺に気を許しすぎ」
「そうか? これでも一応は警戒している。教会では脅してくれたからな」
「あはは、そうかい。だったら、そう言ってくれよ」
 あのおっかない姉ちゃんに、と苦笑をこぼしつつ、すい、とさびが闇の向こうを指さす。
 そこに、
「…………機嫌が頗(すこぶ)る悪いらしいな」
 ぎらり、と禍々しく輝く金の輝きを見つけた。
 

 

「おい、おまえ」
 刹鬼の血を払うために振られた刃が、短く啼いた。
 あたりには濃い血の匂いと、刹鬼が上げた悲鳴の残響が漂っている。
 女はそれらを振り払うように、胸へと垂れていた不思議な色の髪を細い肩の向こうへと撥ねやった。
 その両の腕と顔の左にはすでに、黒い呪文が不気味な刺青のように静かに沈んでいる。
 だが、女の心はひどく荒れていた。
 掛けられた声に振り向く気すら、起きないほどに。
 途中から加わった東雲は、現出した呪文を斬らなかった。呪文にまで斬りかかろうとしたならばすぐさま呪い殺してやろう、とちらと考えはしたが、そうはならなかったのだ。それに、この刹鬼狩が加わったことで、匂いに釣られて集まってきた刹鬼を一掃する時間は短縮された。
 だから、それはいい。
 問題はそれではない。
「聞こえているんだろう? 返事くらいしたらどうだ」
「うるさいわ、黙りなさい。Jの声が聞こえない」
「なんだと」
 ちり、とふたたび湧き起こった殺気に白い目蓋がかすかに引きつる。しかたなく振り返ると、赤い双眸が燃えるような強さでこちらを睨み据えていた。
 それに、女は甘く昏い笑みを向ける。
「それとも、黙らせて欲しいのかしら」
 すう、と金の双眸を細めると、あたりの空気を急激に冷やした。そのせいでどこかでなにかが軋み砕ける音がするが、ちらとも瞳を向けない。
「都合がいいことに、ここには従わせる屍(かばね)がいくつもあるわ。自分が殺したものの手指で口を塞がれ喉を潰されるなんて、そうそうできる経験じゃないと思わない?」
 試してみてはどう、と湧き起こす金色の風に長い髪を揺らしつつ、嗤った。
「おまえが何なのかは知らないが」
 ずるり、と視界の端で動いた赤黒い肉塊に、東雲はするどく舌打ちする。柄を握り直した手指に力を込めると、刹鬼の返り血を浴びた頬を撫でる生ぬるい風を振り払うように、一度頭を振った。そして、
「化け物なら、なんでもいい。かかってこい、斬ってやる」
 そう、言い放つ。しかしそう言っておきながらも、東雲は深々と溜息をつくと刃を鞘へとおさめてしまった。
 その行動が理解できず女がわずかに眉を寄せると、ちら、とさきほどまで女の見ていた方へと赤い瞳を向けた東雲が、
「……と、言いたいところだが、やめておく」
「わたしが怖いのかしら」
「そんなわけがあるか」
「だとしたら。ただの壊れたぼうやかと思っていたけれど、もしかして意外にやさしいのかしらね」
 ふ、と明らかな嘲りを滲ませて挑発するものの、それでも東雲が乗ってこないと知ると、女のほうも虚しくなってきた。いや、そもそも、彼が呪文の踊る舞台へと上がるそのまえから、虚しくてたまらなかったのだ。
 だから、
「……Jは、ね。やさしいのよ」
 不意にくちびるからこぼれた言葉が、ひどく弱々しい響きをしていたのかも知れない。
 けれど一度こぼれたものは、掬いあげることができずに、それはそのまま呼び水となってしまった。
「こんなわたしでも、そばに置いてくれている。それどころか、守ろうとしてくれているわ」
「不満、なのかよ」
 人ならぬものの言葉になど耳を傾けないだろうと思っていた相手にそう訊ねられて、思わず女は苦笑する。そして、そっと頭(かぶり)を振った。
「そうじゃない。ただ、もうすこしだけ、わかってほしいのよ」
「なにをだ」
「Jが思っている以上にわたしは禍々しい存在だということを、よ。ほんとうのわたしはあのひとが思う以上に汚くて、どろどろとしているわ。Jを誰にも渡したくないの。誰にも触れてほしくないどころか、誰の視界にすら入れたくない。いまも、ね。あの男……あなたのおともだち。彼を、赤黒いただの肉塊になるまでずたずたに引き裂いて、踏みにじってやりたいくらいだわ」
「……醜いな」
 ぽつり、と眉を寄せつつ東雲にそう言われた女は、そうでしょう、とふわりと金の瞳を微笑ませる。そして、けれど、と続けた。
「あなただって似たようなものでしょう」
「なんだと」
「あなたの頭のなかのほとんどを占めているのは、あの醜くて汚らわしい化け物ばかり。そこにいるのだと知れると、居ても立ってもいられない。それを目の前にしたなら、他の誰でもなく、自分のその手に握った刃で貫き、切り裂いてしまいたい」
 まるで激しい恋でもしているかのようだわ、と笑みを滲ませ言った女は、鼻を鳴らしながらもくちびるをゆがめた刹鬼狩を横目に、握っていた包帯を呪文の記されたおのれの腕に巻きはじめる。
「そういうわけだから、そろそろわたしの我慢も限界。わたしはJに、そこを動くな、と言われているのよ。だから、わたしの呪文があなたのおともだちを襲う、そのまえに、あなた、なんとかしてもらえないかしら? 死なれては、困るのでしょう?」
 ふふ、と艶めくような笑みを薄紅色のくちびるに刷きつつ、女は言う。しかし不意に、それを聞いて仕方ないと思うのか、どことなく億劫なさまで連れがいるほうへと歩み出したその東雲の背に向かって、そういえば、と声をかけた。
「あなた、さっきわたしになにを言おうとしたのかしら」
 それに、鳩の血色をした瞳が、ちら、とこちらを振り返り、
「…………見逃してやる。そう、言おうとした」
 あの男のそばにいる限りは。
 そう、なんとも不敵な声音でもって、言った。
 直後、血に濡れた闇のなかに弾けたのは、そうだとするなら、とそれに答える女の、華やかな笑い声。
「二度と会わないわ、東雲」
 

 

 青白い月が見下ろす、不気味なほどの静けさを取り戻した夜闇の底。
 廃れた教会で別れたときとは逆にこちらが刹鬼狩を見送った、そのあとだ。
 いい加減に巻きつけられていた包帯を直し、そのために少々乱れていた光沢のある赤紫の長い髪を整えてやる。そうしながら、じっとこちらを見つめ上げてくる右だけの金の瞳をJがオリーブ色の瞳で見返すと、ふ、と女が吐息だけで笑った。
「どうした」
 機嫌が直ったのかとも思うが、しかし、機嫌が良いとも言えないような、どこか闇を滲ませた笑みだ。
「なんだ」
 重ねて問うと、薄紅色のくちびるがゆるりと吊り上がった。
「どうしたのだと思う?」
「……わからないから訊いている」
 すい、と髪を滑らせた手指を引こうとするところに、女の白い手が重ねられる。そのままひやりとした滑らかな頬をそっと寄せられて、ほんのわずか、首を傾げた。
「よそ見はいけないわ、J」
「よそ見なんてしていないだろう?」
「したわ。それとも、おなじ色の瞳だからと、さびとかいうあの憎らしい男とこのわたしとを間違えでもしたのかしら? もしもそうだというのなら、ほかとわたしとを見間違えるような悪い瞳は摘み取ってあげる。そうでないというのなら、二度とよそ見ができないように浮気性な瞳を永遠に塞いであげるわ」
「……どっちにしても、目が痛いな」
「あら、そうね。痛いわね」
 にっこりと綺麗に女は笑う。
 その、いまは右だけの金の瞳に、自分の顔がまっすぐに映っていた。
 冷たい頬にてのひらの熱を移しつつ、Jはそれを見つめ、
「そういうおまえは、よそ見はしなかったか?」
「あら。それは嫉妬かしら? でも安心してちょうだい。いくら赤い目が気に入っても、あの人間とはもう二度と会わない」
「なぜそう言い切れる。気に入ったんだろう?」
「そうね。確かにおもしろい人間だわ。でも……ねえ。あなたといる限りは、見逃してくれるそうだから」
「……は?」
「つまり、そういうことよ」
 くすくすと今度こそ楽しげに笑って、女は頬に触れるJの手を両の手で包み、そのぬくもりを愛しむように、その与えられるぬくもりの代わりに思いを伝えようとでもするように、やわらかな目蓋を静かに閉じた。

 つまりは、ねえ。
 こういうことだわ。
 あなたがいないところに、わたしはいない。
 だから。
 よそ見などしないで。
 わたしだけを、見て。
 
 
 

夢夜行NakedPlaceさまの椿さんの大切な小説、『刹鬼狩』とグリとのコラボ小説を書かせていただきました(*^□^*)
先日椿さんよりいただいた『邂逅』の、数十分ほどあと、という設定です。
ほかの方のおこさまを、台詞と行動つきで書かせていただいたのははじめてだったので、すんごく緊張しました。でも、楽しかったですぅw
ありがとうございました(*´艸`*)
 
 

 

 

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