Midget Drive Round (著:久渚 遊衣様 絵:暮森 ユウヒ様)
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薄暗い路地裏。通りの明かりが細い道へと長く差し込む。
左右に迫る石壁。その間を抜ける路地には滞った空気が腐ったような匂いを溜め込んでいた。昼間ならばともかく、星の世界となった時間帯では出歩く人の姿もまばらで、路地裏に足を踏み入れようなどと思うものはいない。 もちろん、全てがそうだとは言わないが。 音もなく、足を進める男。明かりの乏しい道を、規則正しく歩んでいく。 銀髪混じりの灰色の髪。裾の長い外套の裾が大きく揺れる。胸元を飾る銀のロザリオが僅かな灯火を反射し、きらりと光った。 あまりにも影の薄い男だった。路地の闇に紛れて、見失ってしまいそうなほどに希薄な気配。 不意に、男は足を止め、何かを探るように顔を上げた。 その顔。本来なら二つの目が覗くそこ。眼窩が幾十にも巻かれた白い包帯で塞がれていた。僅かな隙間さえも逃がさないというように、きつくまかれたそれは、視界を完全に奪い去っていた。 ジェイソン。そう呼ばれる男は見えない視線で周囲を探る。 顔の大半を包帯で覆われているためか、その表情はわからない。結ばれていた唇が、僅かに震えたように見えたのは気のせいか。 何かを感じ取ったのか。男は身をひるがえすと、暗い路地の向こうへと歩き出す。その姿は、闇に溶け込むように消えて行った。 *
乱れた息が漏れる。酸素を求めて喘ぐ口と、巡る血流を増やすために暴れる心臓。 屋根と屋根の間を飛び、塀を乗り越え、路地裏のゴミ箱の陰に身を隠す。 すぐあとを追っていた者達が、その姿を見失い、慌てだしたのを気配で感じ取った。 手分けして探すことにしたのだろう。足音が分かれる。 こちらに向かってくる一人分の足音。 息を殺し、身を縮めて――。すぐ脇を足音が通り過ぎる。 物陰に隠れた小さな影を彼は見過ごしたらしい。やがて、足音は遠ざかっていく。 ほっと安堵の息を漏らした。 「もう、しつこ過ぎるよ」 乱れた呼吸を整えるように、大きく深呼吸したあと、思わず呟いた。 ゴミ箱の陰に、ひっそりと身を潜めていたのは男の子だった。 全身を黒色の服で統一し、見える肌も髪も浅黒い。年のころは十を幾つか越えたばかりか。背中には大きな鞄を背負っていた。 きりり、と鈍い音が響く。本来ならば眼球がある場所。眼窩から生える丸い筒。二つの筒が伸縮するたび、音を奏でる。 黒猫(キティ)と呼ばれる少年は、ゴミ箱の陰から顔を出し、辺りを注意深く窺った。人影はない。上手く撒けた様だ。 「大丈夫かなぁ」 こそこそと、影から身体を出す。 まだ近くをうろついているかもしれない。移動するべきか、留まるべきか。結局、黒猫は前者を選んだ。 身軽な動きで壁を登り屋根の上に身を乗せる。それから、注意深く周囲を見渡す。 「困ったなぁ」 自分一人なら、さっさとここから離れればいいだけなのだが、そうはいかない。なにせ、自分ひとりでここに来たわけではないのだから。 博士(ドクター)と呼ばれる人。黒猫はその人に従っている。博士は黒猫にとって恩人だ。優しく情に溢れた温かな人。博士が拾ってくれなければ、黒猫は冷たい路地裏で死んでいただろう。 その博士の指示で、博士の助手とともに、この街にやってきた。ところが、思わぬ邪魔が入った。 なにかと博士にちょっかいを掛けたがる教授が、博士を呼び出すために助手と黒猫を捕まえることを思い立ったらしい。 しかも、生死を問わないとくれば、冗談ではない。 不意打ちで襲われた黒猫と助手は、いつの間にか、はぐれてしまっていた。 黒猫は狙撃手(スナイパー)としての腕前は高いが近距離戦は弱い。黒猫にできたのは逃げることだけ。幸いにも身の軽さでは、教授の犬には劣らない。なんとか撒くことはできた。 「ジェイソンの旦那は大丈夫だとは思うけど」 そんな簡単にやられる人ではないのはわかっているが、どうやって合流するべきか。 先に一人だけ帰るという手がないわけではないが、そうなれば博士との約束の時間に間に合わない。助手が遅刻せずに約束の時間にいけるとは考えられないからだ。 やはり、ここは多少危険を冒してでも合流すべきだろう。 黒猫は、足音を殺して屋根の上を歩き出す。姿勢を低くし、周囲に気を配りながら慎重に。 「旦那……どこにいるのかなぁ」 まるで空気のように、助手は暗闇に溶け込む。それを探すのは、骨が折れる。 屋根から屋根へと飛び移りながら、路地の間にその影がないかと探す。 助手もまた、黒猫を探しているのだろうか。生憎、黒猫には助手の考えなど読めない。何を考えているか分かった試しもない。 向こうもこちらを探していてくれるならいいのだが。先に街を出られていたら、笑い事にもならない。 黒猫は暗闇の中、目を凝らす。 早く見つけて、と急いていたのは否めない。 注意力が散漫になってしまったのも、仕方ないことだ。 ひゅん、と空気を裂いて何かが飛んできて足元を撃った。 それが鉛玉であることを確認する前に、本能的に黒猫は物陰に隠れた。 ひゅん、ひゅんと。石壁に銃弾が弾ける音。 消音器(サイレンサー)とは準備がいいことだ。これならば、余計な目撃者を呼び寄せることはないが。 「やばぁ」 どうやら、発見されてしまったらしい。撃ってきているのは、先ほど黒猫を追っていた教授の犬か。さて、どうするか。 じっとしていれば、仲間を呼ばれてしまう。 挟み撃ちにされたら溜まったものじゃない。 黒猫は意を決すると、走り出した。その後を、銃弾が追う。 屋根から飛び降り、路地を駆ける。追いかけてくる足音。先ほどのように、どこかに上手く身を潜められればいいのだが。 すぐ傍を走る銃弾。無言で追いかけてくる教授の犬。体力勝負なら、子供よりも大人の方に利がある。早いところ、どうにかしなければ。 路地の角を曲がり、奥へとひたすらに走る。だが、 「あっ」 行く先を遮るように立つ男。黒いスーツを身につけ、ネクタイをきちんとしめている。顔を覆うようにつけたサングラスのおかげで表情は窺えない。 そして、その手に握られているのは――。 銃口が黒猫を捉えた。 追いかけてきた方も、追いついたらしい。ちらりと振り返れば、銃を構える姿が見えた。 挟み撃ちにされないように逃げたつもりが、自分から挟みうちにしてしまったようだ。 後退することも前進することもできない。前と後ろから銃口が狙っている。 黒猫は降参を示すように両手をあげるしかなかった。 こんなところで捕まったら博士に迷惑がかかる。 隙をみて逃げ出さないと。力では負けるが速さでならなんとかなる。 黒猫は機会を窺う。教授の犬は、慎重な足取りで黒猫に近付いてくる。 銃口は黒猫の心臓を狙っている。 心臓が不快な音を立てるのを聴きながら、黒猫は一瞬の機会を探していた。 しかしだ。教授の犬も追い詰めた猫に油断するほど愚かではなかったらしい。 大きな手が黒猫の腕を掴む。咄嗟に逃れようと身を捩るが、骨が軋むほど強く掴まれて、悲鳴に似た叫びをあげた。 「放せよぉ、痛いってば」 抵抗する黒猫に対して返って来る言葉はない。 忠実なる犬は主人の命に従って、標的を捕えるだけ。 生死を問わないといわれた以上、腕が折れようがなんだろうが、構いやしないのだろう。 普通の子供ならば、泣き叫ぶほどの痛みが腕に掛かるが、生憎、黒猫には涙腺はない。 代わりに、目から生える黒い筒が鈍い音を奏でた。 「放せってばぁ」 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
痛みは嫌いだ。嫌なことばかり思い出す。
指を差して嘲笑う町人、棒で殴る露天商の親父。僅かな食料を賭けて命がけで生きていた日々。
冷たい路地の。 腐った匂いは。 腕を伝う痛みに。 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
痛みが、全身に伝わっていく。
「あぁぁぁぁあああ!」
パニックに陥った黒猫はただ叫ぶ。叫び声は路地に反響し、高く響いた。 そのときだった。 「子供に乱暴するのは、大人のすることじゃないんじゃないか?」 固い足音と共に、不意に響いた声。路地の滞る闇の中から現れる人影。 「ましてや、二人掛かりで」 気配を巧みに消していたのだろう。近付くまで、誰も気付かなかった。 オリーブ色のコートが路地を抜ける風に吹かれてゆらめいた。金色の髪に、コートと同じ色の瞳が、黒猫を押さえ込む教授の犬を射抜くように見つめていた。 「放してやったらどうだ?」 突如、現れた第三者に微かに動揺を見せるが、男の言葉に教授の犬が答える様子はない。 場の空気が僅かに変わる。それに影響されたのか、黒猫は息を乱しながらも、なんとか落ち着きを取り戻す。 黒猫は顔を上げて、その人物をみた。博士が黒猫のために作ってくれた眼球代わりの筒は、暗闇をも見通す目となる。黒猫にはその人物がはっきりと見えていた。 少なくとも、見覚えのある男ではなかった。
この町の人間ではないだろう。地元の人間にしては、それらしさが窺えない。だからと言って、街を行きゆく商人にしては雰囲気が違う。 どちらかというと、自分たちに近いような――。 それは教授の犬たちの嗅ぎ取っているのだろう。警戒心も露わに男を見つめている。 犬たちの注意は完全にこの男に向いている。すでに押さえつけた黒猫など、注意するに値しないとでもいうように、意識から外している。 その隙を見逃す黒猫ではなかった。 黒猫は、腕を掴んでいた犬の腕に噛み付いた。教授の犬とはいえ、痛覚はある。同時に、体重を掛けて、足の甲を力いっぱい踏みつけてやる。教授の犬が小さく呻き声をあげた。 黒猫を拘束していた腕が緩む。 その一瞬、黒猫は犬の腕から逃げ出した。 黒猫は後ろを振り返らずに、一目散に路地裏の奥へと逃げ込もうとした。が、その背を捉える銃口。 生死は問わない。死体だろうがなんだろうが、連れて帰ることが犬たちに与えられた命令だ。この距離なら絶対に外さない。 引き金に指が掛かり、そして――。 銃声が路地裏に高く響き渡った。 教授の犬たちの手から銃が飛ぶ。 白煙が昇る先。腰のホルスターからいつの間にか抜き放たれていた銃。 それが的確に銃だけを撃ったのだと、教授の犬たちはすぐに気付けたのか。コートの男は銃を構えたまま、一歩、犬たちに近付いた。 犬たちの視線が、暗闇に消えた黒猫の背から、男に移される。 男は銃を構えたまま、無言で威嚇する。それは、来るなら相手になってやるとの意思表示か。向けられた銃は犬たちを捉えている。 ただ立っているだけなのに、立ち姿が、眼差しが、普通の街人とは違う。 教授の犬たちは窺うように男を見つめていたが。 所詮、犬は犬。指示されたこと以外はできないように調教されている。 命じられたことは、見知らぬ男を相手にすることではない。こうしている間にも標的は遠ざかってしまう。 犬たちは躊躇うことなく男に背を向けると、そのまま路地の闇に溶け込んで行った。 コートの男は暫く、その背を見つめていたが、気配が完全に遠ざかったところで、銃を構える腕を下ろした。 蜥蜴籠街(リザードケージ)の稼ぎ屋のJ。その男はそう呼ばれていた。 一体、何事かと思った。 こんな街の中、物騒なものを持って徘徊するやつらを目撃したのは偶然だった。 普段なら、見て見ぬ振りをしただろう。関わらないのが吉。面倒ごとにこれ以上巻き込まれるのは遠慮したい。 だが、その物騒なスーツの男たちが追っていたのは、薄暗くて顔ははっきりと見えなかったが、まだ幼いと言える年頃の少年だった。 物騒なものを振りかざして少年を拘束する男たち。 なんとなく見過ごせず、余計なことだと思いつつ口を出してみたが、思ったよりもあっさりと相手が引いたので拍子抜けしてしまった。 Jは少年が消えて行った路地の先を見つめる。 男たちは少年とは反対の方向に去っていったが、入り組んだ路地。どこで出会わないともいえない。 なにをして追われているのか、何の目的で追いかけているのか。ただの行きずりである以上、Jに知れることではないが。 無事で逃げてくれるように、ひっそりと願う。 いつまでも、こうしていても仕方ないとJは踵を返した。遅くなれば、文句を言う同居人もいる。Jの姿もまた路地の闇に消えて行った。 運が良かった。小さく息をついて黒猫は思う。
思わぬ助け舟のおかげでなんとか逃げることができた。 名前も知らない通りすがりの人に感謝しつつ、黒猫は辺りを窺いながら石壁の間を移動すると。 「ジェイソンの旦那ぁ!」 思わず、黒猫は声を張り上げた。 路地の影に溶け込むように立ち尽くしていた男。ジェイソンはゆっくりと振り返った。その様子だと、どうやら黒猫を探してはいなかったらしい。 黒猫はジェイソンの傍に駆け寄ると、 「もう、オイラ探しまくったんだよ。教授の犬はしつこいし」 文句を言うが返って来る言葉はない。黒猫も期待はしていない。 博士が優秀だと賞賛するこの助手は時間に途轍もなくルーズな上、無口だ。尋ねられれば答えるが、必要なことしか口にしない。 それでも、博士に対しては弱冠、口数が多い気もしなくもないが。 「ほら、さっさと行かないと博士を待たせることになるって」 ジェイソンの背中を押して黒猫は急かす。博士は寛大で、時間に遅れても冗談めいて文句を言うだけだが、それに甘えるわけにはいかない。 ジェイソンは逆らわず、押されるがまま歩き出した。が、すぐに足を止める。文句を言いかけた顔を上げた黒猫は表情を強張らせた。 教授の犬が三人、行く手を塞ぐように立っていた。その手には銃。狙うは助手と黒猫だ。 「旦那ぁ」 声を震わせて、ジェイソンの背中にしがみつく。助手は何を考えているかわからないが、こういうときは頼りになるはずだ。 ジェイソンはしがみつく黒猫など存在していないように外套の内側に手を入れる。犬たちが銃を構えていることなどお構い無しだ。 犬たちはジェイソンに照準を当てて。ジェイソンが銃を取り出した瞬間に引き金を引くつもりなのだろう。 だが、教授の犬たちが引き金を引くより早く、懐から取り出したそれを、ジェイソンは投げた。 ぱん、と音がして黒い塊が弾けた。 途端に立ち込める黒煙。視界を覆いつくしたそれは、瞬く間に犬たちの姿を煙の向こうに隠す。 ただの煙幕ではない。相手の目と鼻を塞ぎ、喉を焼け付かせるように特別に配合された煙だ。 それを知っていた黒猫は、ジェイソンの外套に顔をつけて煙から顔を守る。そんな黒猫など気にも留めず、ジェイソンは煙幕に紛れて犬たちに背を向けた。 街中で事を起こせば死体の処理が面倒であることを経験上知っていた。今は、逃げるが勝ちだ。 「旦那、煙幕投げるなら投げるって言ってよ」 教授の犬を上手く撒いて逃げおおせた後、思わず、黒猫は呟く。 煙を吸い込んだりすれば喉は痛めるし、鼻は痛くなるし、散々な事になる。今頃、あの犬たちが苦しんでいる姿を思うと、少しだけ哀れに思えてくる。 黒猫の言葉を聞いているのか聞いていないのか。ジェイソンは街の外へと歩き出す。黒猫は慌ててその後を追った。 ふっと、黒猫は後ろを振り返る。そういえば、あのとき助けてくれた金髪の人は大丈夫だろうか。そのことを今更ながら思い出した。 犬たちの邪魔をしたのだ。酷い目に遭わされていないとも限らない。 もし、あの人が生きていて、もし次に会うことが会ったら礼を言うのを忘れないようにしよう。暗闇の中、見た顔を深く記憶する。 そう決意して前に視線を向ければ、いつの間にか遠ざかった背。 「旦那、待ってよ」 黒猫は慌てて、その背を追いかけた。 |