アンファン・ペルデュ −歩く者−
 
 月が、ただ黙って中天に浮かんでいる。
 嗤う黒猫の目のような、金色。
 それが見下ろす黒い森では、妖しくも気高い夜の女王のほの温かい吐息が、眠る木の葉をゆるやかに撫で、闇に暗く沈んだ水面を揺らした。どこかでちいさく、夜露が震えて落ちる音がする。
 戯れ疲れた昼の(やから)が心地よい夢を見る、夜。
 静かな夜だ。
 しかしその、夏の名残りの花の香を絡ませる夜気を、誰にも気づかれることなく、そっと、しかし鋭く切り裂き深く進んでいく、漆黒の影があった。
 一見、黒く燃え盛る炎のように見える。闇の帳が落ちた森を舐め尽す炎のように。
 だがそれは、炎だとしてもあまりにも速く、そして冷たかった。
 力強い前足で黒々とした地面を踏み、踏まれた枝葉が音を立てる前に後足で地面を蹴って、しなやかな全身の発条を使って跳躍し、ずっと先へとまた前足をつける。それを、眠たげな眼をしていては決して視認できない速さで繰り返した。そのたびに、闇とおなじ色の毛並みと黒い炎のような(たてがみ)が踊る。
 それは、風だとしてもあまりに獰猛な形をしていた。
 どこからともなく不意に現れた、その禍々しい大きな狼のような姿をしたそれは、底光りする漆黒の双眸で何かを探すように森を駆ける。
 やがて、獣はぴたりとその動きを止めた。
 じっと闇の深くのとある一点を見据えると、鋭い牙が並ぶ大きな口を、まるで人間がするようににやりと歪める。
 その獰猛でありながらもどこか妖艶にも見えなくもない動作に、周囲の闇が揺らいだ。
 ざわり、とそこかしこに息をひそめて隠れるものが怯えてその身を震わせるように。
 ややあって、
「……ごくろうさま」
 抑揚のない、けれど幼く澄んだ少女の声音が、夜露のようなささやかさでどこからともなく転がり落ちてきた。
 そしてその声に少々遅れて闇の向こう側からするりと歩み出してきたのが、小さく細い影だ。
 静かな影のようにひんやりと唐突に現れた少女は、大人しく腰を落ちつけて待つ獣の隣りに立つと、いいこ、と獣のその大きな頭をひと撫でして労った。
 夏が過ぎたとはいえ夜であってもまだ涼しいとは言い難い頃だというのに、小柄なその身体をやはり闇色の外套に包み、少女は目深に被ったフードで表情を隠している。覗くのは、幼い者が持つ特有のやわらかそうな白い肌と、ちいさな薄紅色のくちびるだけ。
 その幼い花のつぼみのようなくちびるが、ふ、と笑みを刷いた。
 そして少女は、おのれを取り巻く闇にはわずかほども怯えることなく目もくれず、獣が見据えるその先を見遣る。
 
 苦痛と恐怖、絶望と欲望。
 
 体感していない者が口に出してしまえばなんとも素っ気ない言葉の羅列として吐き捨てられるそれらが、そこには渦巻いていた。
 常人には視認できない。する必要もない。
 自分のものではないからこそ吐き捨てられるはずのそれらを日常的に体感してしまえば、常人はその心身に大なり小なり異常をきたし、いずれは昼の族としてのまともな生活ができなくなってしまうからだ。
 しかし少女の瞳には、耳には、それらが見え、聞こえた。
 そして闇のなかに身を置くその少女は、すでに静かに歪み壊れていたため、それらを見聞きしてもそれらのためには眉ひとつ、指先ひとつすら動かさない。
 だから見聞きしながらも、ゆっくりと歩み出した。
 その、一層暗いあたり、狂気が濃く漂う場所へと。
 渦巻く苦痛と恐怖を蹴り、叫ぶ絶望と欲望を踏み躙るように。
 そこに()れ鐘のように響く彷徨える死者の魂の歌声が聞こえても、少女がそれに引き摺られることはない。
 少女にとって、その(こえ)らはただの過去に過ぎなかった。必要なときにだけ読む書物の索引でしかなかったのだ。
 だから、知りながらも平然と近付く。
 その、嗤う黒猫の片目、天に浮かぶ月を水面に映し込んだ湖へと。
 警戒して毛を逆立てるような気配を漂わせる相手を表情なく嘲笑い、向けられる敵意を声なく受け流すように。
 なにを壊そうという気も、なにを掬い上げようという気も、少女にはない。
 少女にとって、そこにあるものはただ興味の対象だ。昼間耳にした噂話の真偽にではなく、その噂の元となったものそのものに気を引かれただけだった。
 背後からおとなしくついてくる黒い獣を一度だけ振り返り、そこにいて、とちいさく命じたあと、ふたたび視線を闇に沈みながらも月を映し込み煌めく湖へと向ける。
 そして、
 
「ねむれなかったから、きたの」
 
 まるで御伽話をせがみにきた眠れない子どものような言葉を、口にした。
 
 
 
 
 艶やかな碧緑の葉が一枚、ふるり、と起こった風にちいさく揺れた。
 蕩けるようにやわらかくも息を飲むほどに鮮やかな、翠玉の双眸。
 それが、こちらを値踏みするように視線を寄越してきた。
 同色の髪がしっとりとすこしばかり濡れているのは、水のなかでゆらゆらと揺れながら輝く金色の月のなかで、しなやかに細い手足を伸ばし水浴びしたあとであるからだろう。
 億劫そうに髪をかきやりながら、それはゆっくりと飛び乗った葉の上で、幼く愛らしい顔立ちには不釣り合いな傲然たる態度で足を組んで座った。
「……で?」
 あからさまに不機嫌な声音でそう言って寄越すのは、昼の族の間で囁かれる噂の主だ。
 誘惑の力を持つ精霊、と彼らには呼ばれていた。
 少女は、姿をみせた噂の主を見て、静かな笑みを浮かべる
「ちいさい」
 邪気などはなかったが思ったことを素直にひと言呟くと、それが気に障ったらしい、噂の主が吊り気味の目をさらに吊って、
「わたしに喧嘩を売りにきたのかしら、ちいさなお嬢さん」
 ほんのてのひらほどの大きさしかないその噂の主に、ちいさなお嬢さん、と呼ばれた少女は、しかしそれをからかうことなく、また相手の不機嫌さをものともせず、相手の背で忙しなく動く妖精の羽のようなそれをよく見ようと近付いた。しかし、
「わたしをどうするつもりかしら」
 大きな瞳できつく睨みつけられて、触れてみようと伸ばした手指を止める。
 ことり、と少女が首を傾げると、噂の主は揺れる葉の上に器用に立ち上がり、
「わかっているわ。あなた、魔術師ね。わたしを排除しに来たんでしょう? でも、おあいにくさま。わたしはそう簡単にやられないわよ」
 と言い放った。
 ちいさな指を目のまえに突きつけられて、わずかに身を引く。常は昼夜問わず重たげに大きな瞳の半ばほどまでを覆う目蓋を、この時ばかりはぐっと持ち上げ瞠目した。
 しかしややあって、ゆっくりと瞬き、
「……ちがうけど」
 すっかり常の眠くはなくとも重たげな目蓋に戻って、そう短く言う。
「魔術師なのは、ほんとう。でも、はいじょしないよ? ただ、ねむれなかったの」
 眠れなかったから来ただけ、と繰り返すと、今度は妖精のような姿をした噂の主が瞠目した。
 そうしてみせると、少女とおなじ年頃かと思える幼い顔立ちが、より幼く見える。
 実のところは顔立ちほど幼くはないだろうに、それでもそのように見えるのは、予想していたものとは違う答えに純粋に驚いたからだろう。
「じゃあ、一体なにをしに来たというの。まさか、誘惑の力が欲しいとでも? あなたのような……子どもが?」
 胡散臭い、と言外にほのめかし、そのあたりにいる無邪気に駆けまわって遊ぶような子どもたちとはまったく別のところに身を置く少女を、じっ、と噂の主は翠玉の瞳で見据えてくる。
 その視線をまともに受けながら、少女はまた小首を傾げた。
「ゆうわくの力は、たしかにみりょくてき」
 あったら便利、となにやら幼いやわらかな頬に不釣り合いな昏い笑みを浮かべる。
 すると、
「でも、あなたの色は白くないわ」
 ふふん、と鼻を鳴らして腕を組み、噂の主は顎を逸らした。艶めく薄い笑みをくちびるに刷き、こちらに視線を流して寄越す。
「……色」
「ええ、そうよ。わたしは純粋な白を持つ子にしか力を分けないわ。でも、あなたはそうじゃない。あなたは白くない。むしろ、黒いわ。真っ黒よ」
 黒く穢れた色を、穢れた性質を嗤ってやろうというのか、ちいさな愛らしい容貌に美しくも妖しい笑みを浮かべながらじっくりと観察される。
 その視線が、少女にはくすぐったい。
 くすり、と笑うと、途端にこちらを覗き込んでいた『誘惑の力を持つ精霊』は気分を害したように眉を寄せた。それでもこちらがおとなしくしていると気を取り直したらしく、ふたたび色を探ることに専念する。
「ほんとうに真っ黒。どうしたらその歳でこんなになるのかしら。ふふ。あら、でも……汚くはない。黒いけれど、ちらちらと金や銀の色が時々閃いて見えるわ。まるで、夜の闇に暗く沈んだ水のなかを泳ぐ、魚の鱗のよう」
「黒、きらい?」
「そうねぇ、嫌いではないけれど」
 じっとこちらに視線を注ぐ翠玉の『精霊』は、なにかよからぬことを企む猫のようにちろりと花蕾のくちびるをかすかに舐めた。
「……力のよこどり、できないよ? ニンフェット」
 とりあえず、釘をさしておく。
 すると、厭そうに顔をしかめられた。
「魔術師って嫌いよ。なんでもお見通し、みたいな顔をするのだもの。腹が立つ」
「なまえのこと? そこの木のところ。うまっているおんなのひとが、そう呼んでいたの」
 す、とやや離れた場所にある木の根元を指差すと、ぐらり、と途端にあたりの空気が変質した。
 禍々しく、歪む。
 灼熱に燃えた翠玉が、ちりちりと高い音を立てる。
 強い悪意と激しい怒りに、引き掴まれるように絞られるように。
 土の下、水の底、あたりに滲み染み込んだ死者の悲鳴が湧き上がる。
 遠くで黒い獣の低い唸りが聞こえ、ちら、と少女はそちらへと表情の窺い知れない視線を向けた。
「おこらないで」
 どちらへともなく、そう言う。
「べつに、ここをでてもだれにもいわない」
「無事にここから出られると思っているのかしら」
 地を這うような低い声音で脅されて、ふ、と息を吐く。
「だから、きたの」
「随分な自信ね!」
「『悪魔』とたたかうのも、めんどう。いたいの、すきなわけじゃないし」
 これまでに多くの人間を屠ってきた激しい怒りを見せる『悪魔』をただまっすぐに見つめて、少女は静かに幼い肩をすくめてみせた。
「だいじょうぶ。いまは、うそつかないよ。まだ、魔力をにごらせたくないから」
 そう言うと、翠色に燃えるニンフェットがわずかに興味を引かれたらしい、す、と吊り上がった目を細める。
「……なんのために」
「復讐」
 そのために、魔力の純度を落とすわけにはいかない。だから、魔術を紡ぐためのくちびるを汚す嘘は吐かない。
 幼いくちびるから到底似合わないようなその短い言葉を吐き出すと、それを聞いた精霊を演じていた悪魔がくちびるを歪めた。そして一度はあらわにした悪意と殺気、怒りと狂気をじわりと内側へと抑え込んだ。
 誰も、何者も、聲を発しない。
 湖の水さえも、波紋を描くことをやめた。
 耳が痛むほどの静寂。
 そして、張り裂けそうなほどの緊張感。
 それがしばらく続いたあと、やがて、
「厭な子ね」
 ぽつり、と妖精のような愛らしい姿のニンフェットが、深々と溜息をついて言った。
「よくいわれる」
 ふふ、と自虐的に弱々しい笑みを吐いて、少女はその場に膝を抱えて座り込む。
 それにつられるように、風が吹いた。
 目のまえには、月と星とを映し込んでかすかに煌めく静かな湖。
 新しい緑と水の匂いが、黒い外套を着た幼い身体に纏わりつく。
「……だから。あなた、なにをしに来たのよ」
 苛々と、しかしどこか呆れたように、背中から声をかけられて、ゆっくりと瞬いた。
「マリー」
「なんですって」
「わたしのこと」
 自分だけがなまえを知っているのは対等ではないから、とそれを教える。すると、また溜息を吐かれた。
 今度は、細く、長い。
「それで、マリー」
 ちいさな肺にあるものを全て吐き出すような溜息のあと、マリー、とその呼び名で呼びかけられた。
 懐かしい響き。
 どこか切なくて痛い、その響き。
 ぐ、と思わず眉根を寄せた仕草をごまかそうと、うん、とうなずくついでに、わずかのあいだ膝に顔を埋めた。
「なにか、酷くされたの」
 重ねて問われて、ちいさく首を横に振る。
「……ううん。わたしは、べつに」
 膝を抱えた両腕にちいさな顎を乗せながら、答えた。
 ぼんやりと、かすかに光る湖を見やる。
 軽い羽音が聞こえて、相手が気味悪そうにこちらを覗き込むらしい気配がした。
「復讐、って言ったじゃない」
「うん」
「だったら、ねえ。わたしが特別に力を貸してあげましょうか?」
 やさしげな声音を耳もとに注がれ、あたたかな吐息がフードに隠した黒髪をくすぐった。
 ねえ、と囁かれて、けれど少女はわずかに苦笑する。
「ううん。それは、いい。じぶんでする。あなただって、そうでしょう? じぶんでしなくちゃ、いみがない」
 その提案を拒否されることははじめからわかっていたのだろう、ほんのすこしの誘惑を囁いて寄越した悪魔は特に気分を害したようすもなく、ちいさな肩をすくめてみせた。
「ふくしゅうもゆうわくも、じぶんでしなくちゃ」
「ええ、そうね。自分でしなければ、それは偽りの力だわ。けれど人間はそんなものがほしくて、惑わされるわ。そんなものに、操られる。それであなた、そんなものをあたえる『誘惑の力を持つ精霊』に説教でもしにきたの?」
「おせっきょうは、きらい。するのも、されるのも」
「戦うつもりも排除するつもりもなければ、説教するつもりもない。だったら、ほんとうに一体なにをしにきたの」
 何度目になるのか、ニンフェットがそろそろ笑いだしながら、そう訊ねてくる。
「ねむれないとき、ある?」
 つぶやくように言うと、なあに、と鈴を振るような笑み声で訊き返された。
 右の肩に、ほとんど重みを感じさせないような重みが乗る。
 するり、と白くちいさな手指に、癖のない黒髪を撫でられたような気がした。
「あなた、ただの世間話をしにきたの?」
「うん。たぶん、そう」
 素直にうなずいてみせる。それから肩に妖艶に足を組んで座るニンフェットを、じっとまっすぐに見つめた。
「ねむれないとき、ない?」
 翠玉の双眸に、自分の黒い双眸が映り込んでいるのが見える。
 ふたたびふたりのあいだに落ちた沈黙に、木々が揺れた。
 しばらくそうしていると、やがて、ニンフェットが蠱惑的なくちびるを皮肉に歪める。
 そして、
「……あるわよ。時々、どうしようもなく厭な夢をみたりするわ。太陽がこれでもかというくらい暑苦しい時は、特に」
「よかった」
「ちょっと。なによ、それ。可愛くないわね」
「それも、よくいわれる」
 ふふ、と声を漏らして笑うと、深々と溜息を吐かれた。
「ねえ、なぜそんなことを訊くの。闇に落ちた自分を『悪魔』なら救ってくれるとでも思った? それとも『悪魔』の魂を救いたいとでも思っているわけ?」
「……わたしに、だれかを救うことなんてできない。だれに救われようとも、おもわない。そんなものは、のぞんでいない。ただ……すこし、さみしかった」
 ほんの、すこしだけ。少しだけ寂しかったのだ、と明かしてみせると、ニンフェットは嘲笑うように背中の羽を動かした。
「悪魔のまえで弱さを曝け出さないほうがいいわよ、ちいさな魔術師さん。悪魔っていうものは、わずかな弱さでも見逃さずにつけ込むものだから」
「ほかに、おもいつかなかったの」
「なにを」
「やつあたりするところ」
「……やっぱり殺してやろうかしら」
 ほんとうに腹が立つわね、と諦めたように肩をすくめるニンフェットに、また笑い声を漏らす。
「まだ死ぬ気はないけど、ころすなら、いまのうち」
「……やめておくわ。あなたは泣き叫びながら這いつくばって命乞いなんて……しそうにないもの。つまらない。こっちも、下手に魔術師なんかと争って痛い思いをするのは厭だし。それなら、これからあなたがする復讐とやらに巻き込まれて、泣き叫び闇に(なぶ)られて死んでいく人間がいるとするなら、それを見るほうが楽しそうじゃない?」
「あくしゅみ」
「悪魔だもの。深い闇の深淵に堕ちていく魂を舐め、それに踏み躙られる魂を齧ることに楽しみを見出すのは、当然だわ。それに、復讐は蜜の味だというじゃない。きっとあなたの復讐も甘くて、苦いわ」
 鈴を転がすように笑ったニンフェットの羽が、フードからこぼれる黒髪の先をわずかに揺らした。肩にあったかすかな重みが失せ、翠玉色の妖精のようなちいさな姿が暗い宙に浮く。
 そして冷たい光を宿す双眸が、こちらよりも少々高い位置から見下ろし、
「でも最初のうちは、苦いだけで舌が痺れてしまうかも知れないわね。魔術を紡ぐことも難しいんじゃないかしら。そうしたらマリー、悔しそうな顔くらいできるんじゃない? そのときはわたしが這いつくばるあなたを見下ろして、嗤ってあげる」
 冷酷に、言い放つ。
「だったら、しびれるうちは悪魔にあわないようにしないと。わらわれるのも、すきじゃないから」
 言いながらマリーは立ちあがり、外套についた土や草をまだちいさな手で軽く払い落した。
 拍子に、草の香りがきつく漂う。
 それにわずかの間そっと眉根を寄せ、目のまえに広がる円形の鏡のような湖を静かに睨みつけるように見やった。
 じわり、と水面が揺らぐように、身体の奥が揺れるような気がする。
 だから今度は、迷いや弱さごと振り払うように、いささか乱暴にすら思える強さでまとわりつく草の香りを叩き落とした。
 そのとき、
「甘さを感じるようになったなら」
 ふと、つぶやくようなささやかな声音を聞き、視線だけをそちらへとやる。
 すこし離れた場所に浮くニンフェットの表情は、闇に紛れて読めなかった。
 黙ってその言葉の先を待っていると、ふたたび闇の向こうから忍び笑いが聞こえる。
「甘さを感じるようになったなら、マリー、あなたは人間ではなくなる。それが何と呼ばれるか、教えてあげるわ。それはね、『悪魔』と呼ばれるものよ」
 次いで、あはは、と嘲弄するもどこか寂しげにも痛々しくも聞こえる、壊れたような高い笑い声が上がった。
 だからマリーは、今度はゆっくりと湖に背を向ける。じっと闇の向こうを見つめた。
 姿の見えない悪魔に、挑むように。
「……呼び名なんて、なんでもいい」
 そんなものは『悪魔』だろうが『神』だろうが、その時々によって変わるものだ。だから、なんでもいい。
 ただ、
 もしも……
 そこまで考えて、苦笑をくちびるに浮かべた。
「ばかみたい」
 誰に聞かせるわけでもなく、ぽつりと自嘲を口にする。
 すると、それを聞きつけたニンフェットがぴたりと笑うのを止めて、鼻を鳴らした。
「眠れなくて寂しいから、来たのだったわね」
 答えずにいると、傍らの木の葉が揺れる。そこにニンフェットが座ったのかも知れない。
「ただの世間話をしにきたにしろ、やつあたりにきたにしろ、あなたはまだ中途半端よ、マリー。救いなど求めていないと言いながらも、どこかで救いに焦がれている。死ぬ気はないと言いながらも、どこかで死に焦がれている。いらいらするわ」
 忌々しげに吐き捨てられて、外套の下の幼く白い肌がわずかに粟立った。
「呼び名などなんでもいいと言いながらも、ねえ。あなた、自分の存在が確かに認識されることを望んでいるんじゃない? マリー。ねえ、マリー。それは誰が呼んでくれたなまえなのかしら」
 胸の奥に、見えないちいさな針が無数に突き刺さる。
 じわり、と暑さによるものではない汗が滲んだ。
「時折魚の鱗が煌めく、夜の闇に沈んだ水底の黒色。暗く冷たいくせに、汚れてはいない黒。ねえ、引き返してしまうのなら、いまのうちよ」
 嗤う悪魔の甘い声音で揺さぶられて、固く目を閉じたマリーはちいさな身体のなかから迷いの要素を追い出そうとするかのように、深く息を吐きだした。そうして全身を強張らせていた余計な力を落とし、ゆっくりと夜気を吸い込んだ。
「もう、ねむれそう」
 ふ、と微笑むと、ニンフェットが顔を歪める気配がした。
「……あら、そう。それは良かったわね」
「うん」
 面倒な相手だとわかっていただろうに。
 弱さにつけこみ闇に突き落とすのが、悪魔の楽しみだろうに。
「ありがとう」
 くちびるをなるべく動かさないように、それでも零れるものを止めることなく。
 ちいさくつぶやくように言って歩き出すと、一瞬目の端に捕らえた翠玉色の悪魔が、突かれたような顔でこちらを見ていた。
 ゆっくりとその前を通り過ぎ、来た時とおなじようにそこに渦巻き折り重なったものたちを踏み越えていく。
 豊潤な土の香りと、青々とした草の香り。外套を濡らす透明の露。
 わずかほども気にすることなく、黒く冷たい炎のような獣が待つ場所を目指す。
 ややあって、
「もう来ないでちょうだいよ、ちいさな魔術師さん。あなたの相手は疲れるわ」
 くすくす、と疲れるという割にはどこか楽しげにも聞こえる鈴の音のような笑い声が、背後にある闇の向こう、さきほどとおなじ位置から追いかけてきた。
 だから、マリーは鼻先を押しつけてきた黒い獣を撫でながら、華奢な肩越しにそちらを漆黒の双眸で見やる。
 金とも銀ともつかないちいさな光が、その瞳に遊ぶように閃いた。
「つかれるついでに、ニンフェット」
 相変わらず抑揚のない、音量の少ない声音。
 それでも、訊いてもいいか、と呼びかけると、ニンフェットはこちらの言葉を待つらしい。
 だから、特に声を張らないまま、
「ニンフェットの色は、なに色」
 そう訊ねると、嗤う黒猫の瞳の下、悪魔が妖艶にくちびるを歪める気配がした。
 答えなど期待していない。ただ、訊いてみたかっただけだ。
 だから、黒く冷たい水底に沈んだちいさな魔術師はすばやく魔術を編み、そうして切り開いた闇の口のなか、傍らに獣を従えながら足を踏み入れる。
「さあねえ、何色かしらね」
 それは内緒よ、とふたたびちいさく笑う背後からの声に、ふ、とくちびるを笑ませて。
 この針で肌を刺すような緊張感は、きっと心地よい眠りを誘うに違いない。
 そう、思いながら。
 
 
 
 
 月は、さながら滲むように漂っている。
 嗤う黒猫の牙のような、銀色。
 それを見下ろす黒い水面には、冷酷に麗しい闇の女王のつめたい爪先がひたされ、眠る魚をゆるやかに撫で、月の光を絡ませる尾鰭を揺らした。どこかでちいさく、生命が震えて落ちる音がする。
 傷つき疲れた夜の(やから)冷たい悪夢をみる、夜。
 震える夜だ。
 しかしその、生温く身体にしつこく絡みつく夜気を、周囲の闇を怯えさせながら、鋭く切り裂き深く進んでいく、漆黒の影があった。
 一見、黒く燃え盛る炎のように見える。昼の熱が溶けた水面を舐め尽す炎のように。
 だがそれは、炎だとしてもあまりにも冷たく、そして静かだった。
 力強い前足で黒々とした水面を踏み、踏まれたところが飛沫を散らす前に後足で水面を蹴って、しなやかな全身の発条を使って跳躍し、ずっと先へとまた前足をつける。それを、瞬きをしていては決して視認できない速さで繰り返した。そのたびに、闇とおなじ色の毛並みと黒い炎のような(たてがみ)が舞う。
 それは、風だとしてもあまりに醜悪な形をしていた。
 どこからともなく不意に現れた、その禍々しい大きな狼のような姿をしたそれは、炯々(けいけい)と漆黒の双眸で何かに呼ばれたかのように水の上を駆ける。
 やがて、獣はぴたりとその動きを止めた。
 じっと闇の深くのとある一点を見据えると、鋭い牙が並ぶ大きな口を、まるで人間がするようににやりと歪める。
 その嘲弄するようでありながらも哀しげに見えなくもない仕草に、周囲の闇が沈黙した。
 じっと、そこかしこに息をひそめて隠れていたものたちが怯えてさらにその息を押し殺すように。
 ややあって、
「……いこうか」
 抑揚のない、けれど幼く澄んだ少女の声音が、夜咲きの花のような静けさでどこからともなく滲んで落ちた。
 足もとに漂う月を踏み現れた黒い外套を纏った少女は、水面を揺らしながら傍に寄った獣を引き寄せると、つい、と顔を上げる。
 
 なにも見えない暗闇の先を、見据えるように。
 
 

胡桃ちゃん(ちょこれいとCafe様)にいつもイラストを描いていただいているので、お礼になにか書かせて! とお願いしたところ、胡桃ちゃん作『自由騎士団マグ・メルド』の悪女キャラ・ニンフェットちゃんと、『グリモワール』の『迷子』ことマリーとのコラボを! とリクエストをいただきましたv
悪女と腹黒という組み合わせだったので、バトルにならないかびくびくしつつ……
でも、書いているうちに、ニンフェットちゃんが結構マリーに対して面倒見がいいお姉さんのようになってくれたので(鳳蝶的に)、珍しくぐるぐるしていたらしい迷子もなにやらふっきれた(?)ようです。むしろ黒い方向に。(ぇ
いろいろメンドクサイ子どもなのです。そんな迷子だというのに、ちょっと心配してくれたんだね、ニンフェットちゃん!
そのようなわけで! 胡桃ちゃん、ニンフェットちゃんを貸してくださってありがとうございました! 難しかったけど、楽しかったです♪
 
2010.9.21

 

 

 

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