デエス・ブランシュ
 
 寒さは肌に染み、痛みとなって骨に刺さる。
 暗澹たる空の下、雪まじりの冷たい雨に濡れ灰色の町は震えながら蹲っていた。
 この町で生きた女神と呼ばれる女は痩せた右の手首をさすり、自嘲にも似た息を冷えた虚空に吐き出す。
 
 そろそろだろうか。
 そろそろ、気は済んだろうか。自分は。
 
 この町は陰気に震えて蹲るくせに、ひどく貪欲で抜け目ない。油断や弱さを見せようものなら、たちまち牙を剥き容赦なく喰い殺してしまう。
 そう、多種多様の毒と痛みに溢れたこの町では、当然のように人々の生は短い。
 それでもまだ、自分はしつこく齧りついていたほうだ。
 身体は灰色の雪のように降り積もる毒と痛みに蝕まれ喰われていても、そこだけはいまだに強く輝く漆黒の瞳で、女は夜闇の向こうを見据えた。
 漆黒の毛皮を纏った赤目の悪魔が町を支配した、血と闇の期間。
 約五年というその期間は、数十年前に彼女がこの場に立ったその瞬間、悪魔がいたという事実そのものすら揉み消すように暦から削除されている。
 彼女の意思ではなかったが、それはどうでもよかった。
 そうして隠そうとしたところで、その鋭い爪痕は確かに深くつけられているのだから。町にも、人々の心にも。
 そもそも『白き女神』の力を語るには、その悪魔の存在は欠かせない。
 生き神の力を知らしめたいならば、悪魔を語らねばならないのだ。
「いつまで経っても、愚かなことだな」
 この高い窓から見える範囲に、瓦礫の山は見えない。あれから町は、いくらか増しになった。
 それでも夜闇の向こう、汚染された川の向こう側には、近々完成するひとつの町のような建造物があるものの、まだ廃墟と瓦礫とが群れを成している。
 
『一緒に来るんだ』
 
 そう言った、歳の離れたやさしい兄の手を拒み。
 
『どうしても行くのか』
 
 そう言った、無口な幼馴染みとともに、復讐を生み落とした。
 
 愚かであるのは、他の誰よりも、この自分。
 わかっている。
 けれど、わかっていながらそれでも選んだのもまた、この自分だ。
 白い嘘に塗れ穢れた身体には、もはやかつてあったような力はない。
 あとは痛みに食い殺されるだけ。
 それも、おそらくはそう先のことでもないだろう。
 一度ゆるりと目を伏せた女は、いまはもうなにも編み出すことのできない手で窓を閉じ、真白い部屋のなかへと戻った。
 
「ネオ・フィオナ」
 
 声をかけられて振り返ると、袖に金糸の刺繍が施された白い法服を着た少年が腰を折る。
 『白き女神』に仕える神官だ。
 まだ幼さを残した頬が、わずかに強張っている。
 ネオ・フィオナ同様に長く生にしがみついているものは、進んで彼女には近寄ろうとはしない。だから近くに仕える者は歳若いものばかりなのだが、しかし、そんな歳若い彼らも、必ず耳にする。
 だから、仕方のないことではあった。
 生き神であるネオ・フィオナの傍らには、常に付き従う影があった。
 ネオ・フィオナを語るに必要な、悪魔。
 その悪魔によく似た獣を、ネオ・フィオナは傍においているのだ。
 赤目ではないものの、闇の色に燃える炎のようなたてがみと恐ろしく鋭い牙と爪を持つ、漆黒の獣。
 犬ではない。狼のような、しかしそれにしては大きな、禍々しく猛々しい姿の魔物と呼んでもおかしくはない獣だ。
 それが、いまも真白い椅子に身を預けるネオ・フィオナの足もとで休んでいる。
「ネオ・フィオナ」
 再度呼びかけた少年神官の声に、その漆黒の獣が軽く身じろいだ。
 その仕草にさえ、ひっ、と短く息を飲んだ少年に、ネオ・フィオナはちいさく笑みを向けて言葉を促す。
「あ、あの、お客様がみえています。古い知り合いだと仰っていますが、いかがいたしましょう」
 ネオ・フィオナに直接面会したがる信者は少なくはない。けれど元々得意満面で手を振りながら人前に出るような性質ではない上に色々と後ろ暗いものを抱えた身であるから、そのような信者は丁重に対応させ引き取らせていたのだ。故に、ほんとうに知り合いだろうか、と少年は案じているのだろう。
 ネオ・フィオナは、金にも銀にも移ろうような不思議な色合いを見せる漆黒の瞳をゆるりと宙に向けたのち、
「……知り合いであることに、間違いはないようね。お通ししてちょうだい」
 毒に塞がりかけた喉から押し出すように優しげな声をこぼし、闇の牙が突き刺さって痛む腕を顔色ひとつ変えずやわらかく動かした。
 偽ることには慣れている。
 力を失ったことが、その証拠だ。
 それでも、客人が誰であるかくらいは、いまでもわかった。
 
 
 
 
 ネオ・フィオナの真白い部屋に通された客人は、ふたりだった。
 ひとりは、やはりいまにも町に喰われそうになっている男。
 もうひとりは、若く瑞々しい身体とどこか謎めいた美しさを持つ女だ。
 この町にあっては見ることのかなわない月の光を集めて縒ったかのような銀糸の髪と銀色の瞳、そして人ならぬ美貌を持つ若い女は、
「キアラン!」
 微笑みながら銀色のちいさな鈴が弾むような可憐な声音でそうちいさく叫んで駆け寄ると、嬉しそうにネオ・フィオナの膝に愛らしい仔犬のようにすり寄った。
 傍らの漆黒の獣が鬱陶しそうに長い尾を一度振ったところで、気にすることはない。
 ふわり、と薄紅色のやわらかな花弁のようなワンピースの裾を広げて膝をつき、白い衣装に覆われた枯れ枝のような膝にそっともたれるようにして大きく美しい目を閉じる。
 ネオ・フィオナはぐったりと椅子に背を預けたまま、呆れたように息を吐いた。
 その枯れた手が銀の髪をゆるやかに撫でていることに自身でも気付いてはいたが、とっさに抱きとめるように腕を上げてしまったのだ、いまさら引くに引けない。
「おまえは……いつになったら、覚えるのだ。いまのわたしは、キアラン・シンクレアとは名乗っていない」
「わたしにとっては、いつまで経ってもキアランはキアランだわ」
「ここでは呼ぶな。ここではそれは、血に飢えた赤目の悪魔を解き放った闇の魔術師の名だ」
「自分たちが汚らわしい手で不用意にわたしに触れて解き放ったくせに、ね。酷いわ」
「どうでもいい」
 ふん、と鼻を鳴らすと、それを聞いた銀色の女はネオ・フィオナの膝から顔を上げて白い頬を膨らませた。
「どうでもよくはないわ。わたしにとっては、魔術師キアラン・シンクレアは生みの親だもの」
 しかしすぐに、眉を寄せて小首を傾げると、でも、と続ける。
「でも、キアランが困るなら、ここではその名では呼ばないわ」
 そう言ってまた膝に頬を寄せる銀色の女は、もうひとりの客である男と暮らしていた。
 時が流れる分だけ姿を変える自分たちとは違い、銀色の女の姿は不変だ。
 そして、生き神の正体が実は魔術師であるということが露見してしまうその存在は、秘匿でもある。
 だから、漆黒の獣のようには傍に置いておくことができなかった。
 その銀色の女を預けていた男はというと、ネオ・フィオナとなるずっと以前からの、認めたくはなくとも彼女とは幼馴染みという間柄にある男。
 
『どうしても行くのか、マルグリット。それなら……俺も、行く』
 
 そう言って。
 復讐を生み出すため、魔術師たちを利用した後その存在を一掃しようという罠と知りながらも、キアラン・シンクレアと名乗り教会の呼びかけに応じた際、それを止めようとしたものの結局は共についてきた男だ。
 男とともに生み出した、復讐。
 それが、銀色の女だった。
 復讐として生まれたものであるのだから愛情など湧くはずもなかったというのに、いまは、連れて行こうとしている。
 銀色の女はいま、復讐ではない。その力はとうに失ってしまった。
 だから、放り出しても悪魔が解き放たれることはもはやない。歌をほかの誰かに歌われることも、ない。
 けれど、連れて行こうとしていた。
 自分も男も、もはや長くはないのだと、知っているから。
 銀色の女はすでに、愛する者を喪うことを知っている。
 だから。たったひとりで置き去りにするには、あまりに酷であると思うから。
 連れて行こうとしているのだ。
「マルグリット」
 生き神ネオ・フィオナの秘密を知る数少ない人間のうちのひとりである男は、いくつもある呼び名のひとつではなく、マルグリット、とその名で呼ぶ。
 いまも、むかしも。
 子どものころは、年下の彼がうしろをついてまわるのが少々うるさかった。
 おまえとは違う場所に棲んでいるのだ、と何度言っても理解しようとはしないから、腹も立った。
 けれど、敵地に踏み込むため置き去りにしようとしたというのに、ついていく、と言われたその時は、なぜだか少し、泣きたくなった。
 泣きは、しなかったけれど。
 泣くことなど、もはやできなかったけれど。
 その、男が。あの時よりもずっと低くなった声音でまたその名で呼んで、おなじ言葉を紡いだ。
「行くのか、マルグリット」
 それはあの時とは違う意味の言葉で。
 むかしはただ無言で背を向けただけだったが、今度はすこし、笑ってみせた。
 余裕などというものが、すこしはできたのかも知れない。
 あとは、覚悟だ。
「ああ。近いうちにな」
 頷いてみせると、膝に頬を寄せていた銀色の女がちいさく鼻を啜った。
 どこからそんな水分が生まれるのか甚だ謎だが、出るものはしかたがないだろう。だがいまは、それもどうでもいいことだ。
 そう思い、ネオ・フィオナは銀色の女を黙って泣かせておくことにした。
「ウタを連れていくのか」
 ちら、と男の緑色の瞳が銀色の女を見た。
「ああ、連れていく。それも、そう望んでいる。そのために用意したものもある」
「そうか」
「ああ、そうだ」
「俺も……すぐに行く」
「そうか」
「……ああ」
 口数の少ない男は、いまは痛みをともなう震えに取りつかれて銃を持つことができない手指を背に隠したまま、ちいさく頷く。
 お互い老いたものだ、と。
 そう思うと、なぜか笑みが込み上げてくる。
 嘲笑うわけではない、どこか穏やかな笑みだ。
 自分にはもう、必要のない、沸き起こるはずのないものだと思っていたというのに。
 なぜか、心がひどく、凪いでいた。
 
 
 
 
 ネオ・フィオナの膝で泣きながら眠ってしまった銀色の女を、男に言って白い寝台へと移動させた、その時。
 それまで大人しくしていた漆黒の獣が、不意に低く呻くように喉を鳴らした。
 男が驚いたように凍りつくなか、ネオ・フィオナはやれやれと溜息をつき、
「きょうは客人が多いな」
 と独り言のように微苦笑する。すると、
「そのようね。お邪魔なら日を改めましょうか? あなたが死んだ、そのあとにでも……」
 どこからともなく、返る声があった。
 誰が耳にしても心と魂を奪われ聞き入るのではないかと思われるほどに、昏く甘い、魅惑的な声だ。
 しかし漆黒の獣は、落ち着きなく喉を鳴らす。闇色の毛が逆立っている。
 やがて、ゆるやかに閉じていた窓がひとりでに開かれ、暗がりからひとりの女が姿を現した。
 それはいっそ禍々しいほど凄絶に美しく、悪夢のようにするりと闇を脱いで部屋のなかへと静かに足を踏み入れる。
 巻き起こる生温い金色の風に遊ばせた光沢のある艶やかな赤紫の長い髪と、甘い蜜のように輝く金の双眸。
 闇から現れた女は睫毛長い瞳で、ちら、と警戒しているのか姿勢を低くしてそちらを見つめる漆黒の獣を見返すと、わずかに眉を寄せた。
「取り戻したいのか? 『断章』を」
 元はといえばこの漆黒の獣は金色の女の一部である。こちらの命があとわずかだと知り、欠けた一部を取り戻しに来たのかと問えば、金色の女はゆるりとくちびるを三日月のかたちに笑ませて首を振る。
「いまさらそれが戻る場所などないわ。わたしにはもう、わたしが愛しわたしを愛したひとの名が記されているのだから」
 氷雪のように白い肌には、怪我をしたようすもないのに包帯がいくつか巻かれている。そのうちの、右腕をするりと撫でて、金色の女は言った。
「……その腕にか」
「いたるところに」
「ふん。数十年ぶりに現れたかと思えば、惚気に来たのか」
 きつく眉を寄せてネオ・フィオナが言うと、金色の女はくつくつと笑う。そしてゆっくりと歩み寄ってくると、椅子の肘掛けにするりと腰かけ、
「久しぶりだわ」
 とわずかな躊躇いもなく、ネオ・フィオナの痩せた肩を白い衣ごとそっと抱きしめてきた。
「なんの、真似だ」
 抱き合って再会を喜び合うような関係ではなかったために内心では驚きつつも、しかしそれを押し隠すように顔をしかめる。
 すると、金色の女はまた笑った。
「相変わらず、素直ではないのね。心配していたわ、迷子のマリー……Jが」
 マリー、と幼いころの呼び名で呼ばれて、さらに、一緒においで、と幼かった頃手を差し伸べてくれた兄の名を出されて、ネオ・フィオナは苦笑するしかない。
 肩を抱くしなやかな白い腕を払いのけることもせず、溜息をついた。
「……あなたも相当素直ではないな。あなた自身がわたしの心配をしていたと、言えばいい」
「馬鹿馬鹿しい。わたしを破った魔術師なんて、心配するだけ時間の無駄だわ」
 忌々しそうに身体を離した金色の女の動きを視線で追い、ネオ・フィオナは喉の奥で笑う。
 断章を取り戻すわけでもないというのに彼女が自分のもとを訪れるとは、正直思っていなかった。
 
『マリー。俺と一緒に来るんだ』
 
 耳に蘇るのは、拒むことしかできなかった、やさしい兄の声。
 探してほしくはなかったから生きているという証を残すために、そして、どこかでかすかにでも繋がっていたいという未練があったために、結果幼馴染みという間柄になった男の家に時折顔を出していた。
 けれど、金色の女を著した魔術師の名を捩ってキアランを名乗る際には、証を残すことすらやめてしまったから。
 心配、してくれていたのだろう。
 元々兄以外は生きていようが死んでいようがどうでもいいというような思考の金色の女が、こうして代わりに現れるほどには。
「あれがあなたの『歌』? 寝顔は、むかしのあなたに似ているわね、すこしだけ」
 ふとそう言われて、ネオ・フィオナは金色の女の視線の先で眠る銀色の女を見やる。
「あなたに寝顔など見せた覚えはない」
「死に顔も、見せるつもりはない?」
 に、と金色の女がかたちの良いくちびるを悪戯に笑ませて言うものだから、心底厭な顔をしてみせた。
「相変わらず、悪趣味だな」
「Jにもよくそう言われたわ」
 細い肩を竦めてみせた金色の女は、ゆっくりと近付いた先にある寝台に眠る銀色の女の真白い頬に手指を滑らせるようにして触れると、長い睫毛を一度蝶の翅のようにまたたかせ、
「連れていくつもりなの」
 と訊ねてくる。
 それは、どこか悲しげで、どこか羨ましげで。
 だからつい、
「……テン。あなたも、連れて行こうか」
 そう、口にしていた。
 けれど、金色の女は声を出さずに笑って、寝台から離れた。
「やめてちょうだい。あなたの道連れなんて、ぞっとするわ。それに、わたしは待っているのよ」
「待っている? 何をだ」
「Jよ。当然でしょう。いつか、また会えるわ」
「幻想だ」
「ええ、そうね。でも、それでいいのよ。たとえ会えなくても待っていたいのよ、わたしは。それだけで、生きていける」
 ころころと鳴る鈴の音のように笑って、兄が愛した女は黄金色の美しい瞳でまっすぐに闇の先を見つめる。
 金と銀と。
 どちらが賢明で、どちらが愚かであるのか。
 どちらが強く、どちらが弱いのか
 そんなことは、どうでもよかった。
 どちらもが意思を発現し、そしてそのどちらもが確かにひとりの人間を愛した。
 ただの物などではなく。
 ひとつ、ではなく、ひとり、として。
 その事実だけで、充分だった。
「ねえ、坊や。あなたはどう思うかしら。ひとりを思いながら生き続けるのも、悪くないとは思わない?」
 不意に、坊や、などと呼びかけられて、もはや坊やの面影など欠片もない男が言葉を詰まらせる。
 そのようすを横目に、ネオ・フィオナはくちびるを笑ませた。
 金色の女がゆっくりと男に歩み寄るが、黙ってそれを眺める。
 答えなど、聞く必要はない。
 聞いたところで、なにも変わらない。
 確かに、そうして生きてきた。
 そしてこれからも、それは変わらない。
 わかっていることだ。
 だから。そんなことは、どうでもよかった。
 そして、
「久しぶりだわ」
 思う通り、金色の女は、ただそう言って男を抱きしめた。
「ずいぶん遅くなってしまったけれど。頑張ったご褒美よ、レン」
「……あ、ああ」
「あの頃はとってもちいさくてまだ可愛かったというのに、見違えるほど小汚い年寄りになったわね。まあ、あの頃も洟を垂らして小汚いといえば小汚かったけれど」
「…………」
 散々な言われようではあるもののその間もやわらかく抱きしめられ、それに戸惑い硬直する男のようすに、笑いが込み上げる。
「良かったな」
 短くからかいの言葉をかけると、男の耳がらしくもなくかすかに赤くなった。
 男は、何かを言おうと口を開けるが、結局は何も言えずに口を閉じる。
 男にしてみれば、幼いころに出会った美女が、数十年経ったいま、あの頃となにひとつ変わらない姿で目のまえにいるのだ。驚くのも無理はない。
「さあ、約束は確かに果たしたわ」
 そろそろ行くわ、と男を離した金色の女が晴れやかに笑い、雨に濡れる窓へと寄る。
 白く優美な手が窓にかかった。それを見つめながら、
「……ありがとう」
 思わず口を滑らせると、金色の女が不気味なものを見るような目でこちらを振り返った。
「幻聴?」
「ああ、幻聴だ」
 きっぱりと言い切ってやると、金色の女は呆れたように肩を竦める。
「ほんとうに、可愛くないわね」
「そうか」
「ええ、そうよ。けれど、マリー」
 マリー、とふたたびその名で呼ばれて、ネオ・フィオナはじっと金色の女を見つめた。
 そして言葉を、待つ。
「あなたも、良かったわね」
 寄越された言葉は、ただそれだけ。
 けれど、充分だった。
「……ああ、そうだな」
 
 もう、気は済んだかも知れない。
 
 ふ、とネオ・フィオナは、金色の女が消えた暗い窓を見つめたまま、静かにくちびるを歪ませた。
 それを拒み闇の道を歩んだのに、いまここに、それは確かにあった。
 そんなものは必要ないと背を向けていたというのに、ずっとそれは傍についてまわった。
 それが、よくわかった。
 いや、ほんとうは気付いていた。気付いていたけれど、気付かないふりをしていた。
 けれどようやく、愚かな自分はそれを認めることができたのだ。
 いま、ようやく。
 だから、
 
「……愛しているよ」
 
 くちびるに笑みを乗せ、諸手を上げて認める。
 それは、毒と痛みに喰われた彼女の、嘘偽りのない真白な言葉だった。
 
 
 
 
「ネオ・フィオナ……」
 少年神官は、誰もいない真白な部屋で呆然と立ち尽くしていた。
 先刻ここに通したはずの客人の姿はおろか、生き女神の姿も忽然と消えていたからだ。
 誘拐か、と一瞬そのような考えが過ったが、書き物机の上にある羊皮紙に気付いた。
 それは、手配中の禁書、魔道書の類、見つけ次第焚書とすべき禍々しく危険な書名の羅列。
 そこには真新しい洋墨で消された書名があった。
 そして、
『もはやないものを探すのは、時間と労力の浪費だ』
 という走り書き。
 ネオ・フィオナの筆跡(て)によるものだ。
 
 探すな。
 それはもはや、この世に存在しない。
 
 あの漆黒の獣の姿もない。
 だから、攫われたわけではない。
 生き神は、もはやいないのだ
 どこを探しても無駄。
 それがわかったから、少年神官は声を上げることなくただ黙って、冷たい雨に濡れる暗い窓を見つめた。
 その手にある、羊皮紙。
 その目録から削除された書名は、ふたつ。
 
 ひとつは、『黯い魚の歌』。
 闇の魔術師の怒りと嘆きの歌が込められた、恐るべき破壊の書。
 
 そしてもうひとつは、『死者の舞踏』。
 死者を蘇らせ思いのままに操る術が記される、忌まわしき闇の書である。
 
 
 
 
というわけで(?)、『グリモワール』シリーズと『禁書、黯い魚の歌』は繋がっています。ついでに、期間限定公開した『魔道書』とも。
魔術師キアラン・シンクレアでありながら生き神フィオナとなった、迷子のマリー……マルグリット・シンクレアのお話でした。
復讐のために優しさや愛情なんてものに背を向け拒んできたけれど、ほんとはそれらはずっとそばにあったんだよ。それらにずっと、支えられていたんだよ。
そして、死期を迎えた彼女とともに、ふたつの魔道書も消えました。
ひとつは終わるために。もうひとつは、待ち続けるために。
選んだ道は違うけれど、誰かを愛し愛された『ひとつ』ではない『ひとり』であるために。
それぞれが姿を消したけれど、でもきっと……みんな静かに笑っていると思う。


2011.7.3 鳳蝶

 

 

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