旅立ちの夜 − エンデ −
冴えた冬の夜だ。
細く白い月が、星を散りばめた女王のドレスに引っかかっている。
その空を仰ぎ白い息を吐き出すのは、真夜中の青色の法服を着た若い魔法使いだ。
銀灰の髪に、花色の瞳。
どこか憂いを含むようでしかし冷たいようなその横顔には、冬の夜が似合った。
長く風にさらされたためか、頬が白い。
それは鋭く尖った月のようでもある。
「ユーグ・パラディ」
不意に声をかけられて、魔法使いは軽く息を飲んだ。
振り返ると、いつのまにか背後に少女が立っていた。
声をかけられるまで気付かなかったとは。
内心で舌打ちをしたパラディは、まだ幼いその少女を見やると無言で眉を寄せた。
胸に、痛みが走る。
「魔法使いパラディとは、あなたのことでしょう」
鈴のような少女らしい高めの声音が言うと、ふわり、と足首までを覆う裾が揺れた。
黒のレースで縁取りされた、黒天鵞絨(ビロード)の衣装。
ささやかな月影にさえ輝く金の髪を結うリボンもまた、黒だ。
「……泣いて……?」
ふと、そう言われて、パラディはさらにきつく眉を寄せる。
「なんだと」
尖った声音を吐きつけるその白い頬に、涙の伝った跡など見えはしない。たとえそうであったとしても、暗いなかではそれが知れるはずもない。
気のせいと思ったのか少女は、なんでもありません、とやけにおとなびた口調で言うと首を振り、静かに瞳を伏せた。 そして、そのまま口を閉ざした。
ゆるく巻かれた金の髪が風に揺れて、影を落とす幼い頬を冷やす。
まだちいさく細い肩が、震えているようだった。
「……風邪をひくぞ」
言うと、うつむいていた少女が顔を上げる。
「それはあなたにも言えることでしょう? こんな寒い庭にひとり、空など見上げていては」
「誰に言っている」
「ユーグ・パラディに、です。それとも、あなたはパラディではないのですか」
「俺が風邪などひくものか、と言っている」
「魔法使いは風邪をひかないのですか」
不思議そうに問われて、パラディは相手に聞こえないほどちいさな溜息をついた。
「風邪をひいている暇など、俺にはない」
「ぼんやり空を見上げている暇はあっても?」
「……そうだ」
目を逸らした先には、虚しさに包まれたロシュフォールの城がある。
窓には明かりがあるものの、楽しげな声はひとつも聞こえてこない。
「パラディを頼るように言われました」
視線を引き戻すように、はっきりとした声音で少女は言った。
しかしそれは、強さを持ってではなく、どこか悲しげにこちらの胸に響く。
「わたしはここに居場所を失いました。ほかに頼る者を知らない」
言葉の端が震えそうになるのを、くちびるを引き結んで耐えるらしい。
風が冷たくて、痛めた胸に染みる。
いまにも氷雪に、閉ざされてしまいそうだった。
パラディはふたたび空を仰ぐと、白い息を吐く。
そして呪文を紡ぐ嘘をつかないくちびるで、
「ああ。頼れ」
そう言った。
「おまえが俺を頼れと言われたように、俺もおまえを頼むと言われている。だから、頼ればいい」
ふ、と少女が深く息を吐くのを耳にして、パラディは彼女へと視線を戻す。そして、花色の瞳を軽く瞠った。
少女は微笑んでいた。
いまにも泣き出しそうな顔で。
そして、
「では、パラディ。頼みます。エステルを連れて行って。綺麗なものが見たいのです。この空よりも、ずっと綺麗な空を。この庭に咲く花よりも、ずっと美しい花を。だからわたしを、連れて行って」
それは骨にまで染みるほど、冷たくて。
とても、冷たくて。
パラディはゆっくりと目を閉じた。
「俺は甘やかしたりはしないぞ」
「自分の足で歩めます」
「それなら……さっさと着替えてこい」
わかりました、とうなずくその顔を、まともに見ることができない。
それは、旅立ちの夜だった。
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