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 血煙に視界が塞がれる。
 だが薙いだ長剣をそのまま止めることなく、身体を捻って背後から襲いかかる気配に向けて振り下ろした。
 本来なら肉の断たれる厭な感触は腕を這い上がりと濃い血の臭いは鼻を衝くだろうに、もはやそんな感覚は失せている。重く水を含んだ泥が落ちるような音で赤黒い地に崩れたそれを顧みることなく、立て続けに刃を返しては振るった。
 斬って、抉って、突き破って。目に映る黒い影はすべて、殺して、殺して、殺した。
 与えられた馬はとうに喰われ、味方もあとどれほど残っていることか。
 昼であるのか夜であるのか、身体中を濡らす血が敵のものであるのか自分のものであるのか。いま、敵を殺すたびに増す苦痛に覆われた自分が息をしているのか、それすらも曖昧だった。
 それでも、死ぬわけにはいかないのだ、と蒼白な面に狂気の双眸を光らせて、殺す。
 左手後方に助けを求める悲鳴を聞き、振り返ると同時に、腰に差していた針状の短剣を数本左手で引き抜くとそちらへと擲った。
 うまく敵へと短剣が突き立ったのだろう、安堵したような声がこちらへ向けて上がるが、動けるのならば構ってはいられない。止まれば死ぬ。殺さねば、殺される。
 直後、同じ方向から先ほどとおなじ声音の断末魔が聞こえた。
 嗚呼、止まるからだ。こちらに気をとられるから、だから。殺される。
 地に蹴り倒した敵に向かって突き刺した切っ先を斬り上げ、正面からの敵を。周囲を囲みじわじわとその輪を縮める敵には、大気中に漂う血油を凝縮させて炎を生み、火炎を纏わせた剣を一閃させて吹き飛ばした。すると、
「ゼフィルス様! こちらに!」
 聞き覚えがあるような声音だった。
 剣を持つ右手を不意に、ぬるり、とした何かに掴まれぎょっとする。咄嗟に斬り払おうとしたが、また、ゼフィルス様、と声がして、危ういところでそれが血に濡れた少年の手だと認識した。
「はやく!」
 引き摺られるようにして手を引かれ、急速に意識が朦朧としはじめる。だがここで気を失うということそれは、即ち死だ。ぐるぐると視界がまわるなか、必死に足を動かした。
 そして、冷やりとした空気に包まれたと思った途端、背後で重い石が動く音がする。
 振り返ると、石の扉がどこかで見たような少年によって押し閉められたところだった。どうやら、建造物のなかであるらしい。
 ぐるりと見渡すと、やはり見知った、しかし疲れ切り怯えきって弱った顔が、いくつもあった。そのどれもが冷たい石床に倒れ伏し、大きく肩で息をしながら震えている。
「ご無事、ですか……?」
 扉を背に膝を崩して座り込んでしまった少年が、それでもこちらに声をかけてきた。まだ幼さを拭いきれない顔立ちではあるがいまは自身の血であるのか返り血であるのか血に汚れ、薄暗い建物内部でもわかるほど強張り疲れ切った顔をしている。
「……レ、ヴィ」
 ふと少年のなまえを思い出し、しかし思い出したところで不意に意識を濃い闇に覆い尽くされ、ふらりとその場に座り込んだ。重い眩暈と激しい頭痛に顎を反らして冷たい壁に頭をつけると、痛む目をきつむ瞑る。
 その眩暈と頭痛がさきほどよりは多少マシになったころ、苛立つような声音が遠くでなにかを話すのを聞き、いまだ目蓋が重くて目は閉じたままではあったが暗闇に横たわっていた意識を手繰り寄せた。
「やめてください!」
 高い声は、レヴィのものだろう。
 騎士見習いであるレヴィ・サフィアは、なぜか自分によくなついていて子犬のように後をついてくる少年だ。けれどまさか、まだ騎士でもないというのにこんな地にまでついてくるとは思わなかった。いや、ついてきたのではないのかも知れない。
「ゼフィルス様に触るな!」
「黙れサフィア! こいつ! こいつのせいで、我らはこんな呪われた地にやられたのだぞ! こいつさえいなければ、こんな穢れたやつさえいなければ、こんなことにはならなかったのに!」
「殺してやる! いますぐに首を刎ねて、王に献上しよう! そうすれば俺たちは王都に戻れる!」
「やめてください! ゼフィルス様は悪くない! あなたたち、散々危ないところを助けられておいて、なんということを!」
 ああ、なるほど。
 ゼフィルスは目蓋を閉じたまま、乾いた心で思った。
 確かに、自分のせいだ。自分が生にしがみ付くせいで、多くの人間が死に、残り少なくなった者たちはいまもなお死の恐怖にさらされている。
「やめ……っ!」
 肉を打つ音に次いで、なにかが倒れる音がした。石床を転がって呻くのは、レヴィだ。おそらく、頬を強かに殴られたのだろう。
 とっさに起き上がろうとしたゼフィルスは、しかしすぐ目のまえにあった爛々と光る眼だけが異様に目立つ歪んだ男の顔に、身体を強張らせた。
「死神、なあ、白い死神さんよ。アンタ、淫乱な母親とおんなじで王の慰み者なんだってな。挙句、疎まれて、こぉんなところに放り込まれたんだって? え?」
 顔に覚えがないから下級の兵士なのだろうが、下卑た笑いを狂気に染まった顔に張り付け吐く言葉はやはり、その面同様に下卑ている。
 いますぐにその首の骨を折ってやりたい、と思いながらその男の背後に視線をやると、レヴィを殴り倒したと思われる騎士が、憎悪と侮蔑に満ちた目でこちらを睨み据えている。どうやらこの地に自分と一緒に放り込まれた怒りと憎しみを吐き出すついでに、たとえ耳を塞いだところで聞こえてくる口さがない者たちの間にのぼる噂をぶちまけたらしい。
「汚らわしいおまえのせいで、我らまで殺される」
 そうは言うが、そもそも自分とともにこんな場所へ放り込まれるようなことを、なにかしでかしたのではないのか、と。そう思いはするが、それについては口を噤む。そんなことはどうでもいいことだ。しかし、
「……汚らわしい、か。否定はしない」
 久々に言葉を発すると、声はひどく掠れて聞き取りにくいものだった。
「だが、母が、なんだと……?」
 言ってみろ、と相手に負けぬほどの憎しみを込めて騎士を睨みつけると、こちらの腕を掴み覆いかぶさるように身を乗り出していた下級兵士が狂った笑い声を上げる。
「淫乱な母親って言ったんだよ! 血は争えねえんだな! 穢れた血! 母親とおんなじでそのお綺麗な顔で誘った王を、兄妹一緒に咥え込んでんだろ? なあ、殺すまえに、その首を斬り落とすまえに、俺にも楽しませてくれよ!」
 ゼフィルスは、さらに体重をかけてきた下級兵士の、まだなにかくだらないことを吐き出そうとしていた口にいまだ防具をつけたままの拳を容赦なく叩き込むと、歯を折られてくぐもった悲鳴を上げもんどりうった相手の身体を床に落として身体を起こした。そして、さきほどまでぐったりと力を失くしていた人間とは思えない速さで相手の腰に吊るされたままだった剣を素早く抜き払い、その首を躊躇することなく斬り飛ばしてしまう。
 血飛沫が噴き、雨が降るような音で石の床や壁を赤黒く叩きつけて汚した。
 そして、それまで憎悪と侮蔑とで顔を歪めていた面々が、足下まで派手に転がってきた首をまえに一斉に悲鳴を上げて腰を砕く。
「穢れているのは、否定しない。俺の身と、俺の血の半分は、おまえたちのいうように穢れている。だが、穢れているのは、卑劣で卑怯な狂ったあの男の血だ。母の血ではない」
 低く抑えられた静かではあるものの怒りに震える声音でゼフィルスは言い、ぐしゃり、と首のない男の胸を踏み越え、壁際まで逃げた部下たちに歩み寄った。
 自分だけならば、なにをどう言われようと構わない。なにをどうされようと、耐えられる。
 けれど。いまは亡き母と、そしていまも王宮に囚われているまだ幼い妹を愚弄することだけは、許せなかった。母と妹の身と命と魂とを汚すものは、何人たりとも許せない。
 ぎりり、と自分のなかのなにかが引き千切られるような感覚とともに、剣を握る腕に筋が浮いた。
 筋が切れ血が流れても、肉が抉れて骨が突き出ても。腐臭に塗れ血反吐を撒き散らしても。それでも、母と妹は守らなくてはならない。守れるのはただ、自分ひとりなのだ。
 しかし、
「ゼ、ゼフィルス様!」
 ふと、ようやく立ち上がったレヴィに腰に手を回され後ろにひかれて我に返る。そして、それに気付き、はっ、と瞠目した。
「……レヴィ。動けるか」
 隙間もない頑丈な石の壁であると思い込んでいたそれが、騎士たちの背後にあるそれの一部が崩れ、向こう側に禍々しく光る眼がいくつもこちらを覗き込んでいたのだ。
「……は、い」
「走れ!」
 弱々しくこの場に蹲るなら死ぬだけ。死にたくないならば、筋が切れ血が流れても、足が折れて肉が抉れ骨が突き出ても、走れ。
 ぐ、と首の根を掴むようにしてレヴィを引き起こし、あとは振り返りもせずにただひやりとした闇に包まれた建物の奥を目指す。
 激しく擦れるような呼吸音がレヴィのものであるのか、自分のものであるのか。石壁に反響するそれに混じり、さらにずっと後方で上がる断末魔や骨肉が挫かれ引き裂かれる音を聞きながら、苦痛にしがみ付かれた身体を引きずるようにしながらも駆けた。
「も、もう、む……り……っ」
 息も絶え絶えに泣き始めた小柄な少年の腕を掴み、ゼフィルスは幾重にも蜘蛛の巣が垂れる向こうに隠された最奥の石扉に体当たりをする。
 濡れた肉が石床を打つ音がこちらにも近づいているような気がするのだ、このまま立ち止まるわけにはいかなかった。たったふたりで、しかも襤褸(ぼろ)のようなこの心身で、ただ斬りつけるだけでは痛みすら感じないのだろう何度でも立ち上がる化け物を相手になどできるはずがないのだ。
 レヴィの腕を離し、重い石の扉を砂と埃とに足をとられながら押す。
「……ゼフィ……ル……さ、ま……ぁ」
 泣くな、泣く力があるなら立て、とそう思いながらも口にしてやれるほどの力をそちらに向けられず、ゼフィルスは渾身の力をもってわずかに動いた扉の隙間に指を捻じ込ませた。知らず、口からは低い唸り声を上げる。
「……ぁ」
 それを泣きながらもどこか呆然と見ていたレヴィが、不意に泣くのをやめてよろよろと身を起こすと扉を押しはじめた。
 すると、人ひとりがようやく通れるほどの隙間があく。
 ゼフィルスは扉をなおも押しながら、レヴィを掴んで隙間に押し込めた。あっ、と悲鳴を上げて扉の内側へと転がったレヴィが、慌ててこちらへと両手を差し伸べてくる。それを掴み、肩の関節を外すのではないかという勢いで隙間に跳ぶと、視界の端にこちらを掴み損ない空を切った黒い腕を捉えた。
「お、せ……っ!」
 転がり込むと同時に素早く身を起こし、今度は扉を閉じるためにそこへふたりがかりで体当たりをする。
 隙間に差し込まれた爪長い黒い指が押し潰され、ごきりと嫌な音を立てて切断されて蟲のように床へと落ちた。そうして、狂猛な唸り声を向こう側へと押しやりながら、石扉はしんと重く閉ざされる。
「た、たすか……った……」
 血塗れの音と恐怖とを遮断した扉を背に座り込んだレヴィが気の抜けたように呟くが、このままでは扉が開かないとも限らない、とゼフィルスは暗いなか辺りを見回した。だがすぐ傍の崩れた円柱は重くて持ち上がりそうにもなく、それ以外にはたいして重みがあるようなものはない。
 しかし、ふと奥のほうになにかが動くのを見た気がして、息を飲んだ。
 まさかここにも入り込んでいたのか、とこちらのようすに気付き怯えて呼吸音を隠すために思わず口を塞いだあとは凍り付いているレヴィを庇い、ゼフィルスはふらつきながら立ち上がる。剣を抜くと鞘走る音が反響するが、それ以外は静かだ。
 扉を開けようと肉をぶつける音すら、ない。
 もはや立つことすらもできないレヴィを扉のまえに残し、なにかあったら声を上げろ、と仕草で伝えて、声を出さないまま闇のなかへと足を踏み出す。
 昔なにがあったのか石の柱が幾本も倒れて重なり合うその向こうを覗き込むと、不意になにかが光った。
 突然の光に焼かれて咄嗟に目を閉じるが、すぐに腕で庇いながらも目を開く。
 ほんのわずか崩れて、雲に覆われた空の色を覗かせる天井。
 そこから落ちる、一筋の弱々しい光。
 浮いた埃がちらと淡い光のなかで舞う、その下。
 それはふたたび、強く光った。
「……なん、だ……?」
 抜身の剣をそちらへと向け、すこしでも光が反射するようにと動かす。
 それは、巨大な石像のようだった。
 幾重にも鎖に巻かれて囚われたなにかを模っているらしい。
 その一部、どこかに金属でも使われているのか、積もる砂と埃の下からそれが淡い光を反射して光ったのだ。
「ゼフィルス様、どうしたんですか……?」
 石扉のまえから這いずるレヴィが震える声で聞いて寄越す。扉を隔ててはいるものの血に飢えた化け物の傍という状況が恐ろしいのだろう、そちらに行きます、と弱々しく言った。
 それを一度振り返り、ゼフィルスは大きく息をして震える身体を叱咤する。
 石像をよく見ようと、倒れた柱を越えて傍へと寄った。途端、
「……っ!」
 ばらり、と石像の光る部分、おそらく翼にあたる部分が薄く割れて表面が崩れ落ちる。そして、さらに光がその強さを増す。
 ふたたび腕で光から目を庇いながらも、一体なんだ、とそちらを注意深く見、そして、ゼフィルスは息を飲んだ。
 それはまるで真珠のような滑らかさと輝きで、ひどく美しかった。
 こんな場所でこんな状態だというのに、なぜか胸に迫るようなものを感じる。大きく瞠った瞳のその裏側が、熱くなったような気がした。
 そっと、剣先で光の周囲を軽く突く。そうすれば、もっと光るのではないかと思ったのだ。そして、ああ、と声を漏らす。
 剣先で突いた一点を中心に、石像の埃と砂に塗れたその表面にあっという間に罅が広がっていき、そしてその罅の向こう側から、真白い光が溢れてきたのだ。そして、
「……これ、は……」
 発した声音を掻き消すように、石に覆われていたそれが、『鳴いた』。
 深い森に棲む大型の獣たちとも違う、扉の外にいるだろう黒く穢れた化け物たちとも違う、これまで聞いたことがない咆哮が、低く高く、長く響き渡る。
 間近でそれを浴び、知らず石床に尻をついた。
 そのすぐ目のまえで、石像と思っていたそれは砕けた石を振り払い、錆びてはいるものの太く頑丈な鎖と杭とで床に縫い止められたままで、しかし長い首を擡げ、巨大な翼で身体を支えてもがく。
「ゼフィルス様!」
 悲鳴のようなレヴィの声を聞くが、ゼフィルスの瞳はそれに捕らわれたまま。
 ふたたび咆哮を上げたそれは、天井から漏れる淡い光をそれ以上の真白い光でもって跳ね返しながら、巨大なあぎとをこちらへと向けた。
「……竜……?」
 掠れた声を漏らすと、巨大なそれは真珠の光沢をもつ鱗に覆われた首をぐっと反らして、いまだ座り込んだままのゼフィルスを見据える。そして、忌々しげに鼻を鳴らし、片方の瞳を眇めた。
 その巨大な生物の居丈高なようすに、しかしゼフィルスはふと自分のくちびるから笑みが零れるのを自覚する。
 すると不審がるように真珠色の竜はさらに瞳を眇めた。
「……いきなり食いついたりは、しないのだな」
 首を伸ばせばその巨大なあぎとに呆気なく捕えられる距離だろうにと思って、と笑んだわけを教えてやると、竜は長い尾を動かしたらしい。かすめた奥の壁が軽く抉れたようだ。
「食われるつもりがあったか」
 ふと、ひとの言葉で、竜がそう言った。
 遠くでレヴィが、ひっ、と息を飲むのを聞くが、放っておく。
 言葉がわかるのか、と思いつつ立ち上がるゼフィルスは、未知の生物をまえにふらつくことがないようにと足に力を込め、精々背筋を伸ばして睨み据えるように前を向いた。
「食われるつもりはない。こんなところで死ぬつもりは、一切ない」
 はっきりと、腹から声を出して言い切ると、竜がふたたび尾を動かす。今度は床に叩きつけるように動かしたようで、地鳴りのように足下に振動がきた。
「ああ、わたしも、こんなところで死ぬつもりはない」
 言って、竜は喉と鼻の奥に炎の塊を揺らめかせながら、翼を床に縫い止める杭を引き抜こうと動く。鱗に食い込む鎖が軋み、ひどい音を立てて表面を削った。
「なにをして、囚われている」
 問いかけると、竜が溜りに溜まった怒りをぶつけるように咆哮する。
「わたしが罪を犯したとでも言うか! 罪を犯すのはいつもおまえたちニンゲンだろう!」
「悪かった。聞き方を間違えた。なぜ、こんな場所に囚われている」
 問い直し、ゼフィルスは光る竜の全身を改めて見やった。
 人間が打った杭と巻き付けた鎖なら簡単に解いてしまいそうなほどに見えるのだが、それらはどれほどにこの巨大な竜がもがいても解けないらしい。弱ってはいるのだろうが、けれどそれにしても力はまだあるようなのに、だ。
「貴様に言う必要はない!」
「……また怒られたな」
 呟いて、少し後ろへと下がると柱に背を預けた。いい加減、身体が辛かったのだ。
 ゼフィルスが柱に凭れて溜息を吐くと、今度は竜がこちらをじっと眺めてくるらしい。けれど、うるさく蔑みながらじろじろと無遠慮な宮殿の連中の視線に比べればそれは透きとおっているように思えて、なぜか不快な感覚はなかった。
「……なに?」
 わずかに首を傾げて訊くと、竜がわざわざ馬鹿にしたような態度で首を反らす。
「まるで襤褸のような形(なり)だな」
「……ああ、化け物の群れのなかで戦っていたからな」
「化け物?」
「黒い、爛れて腐ったような肉と、穢れた爪と牙で襲ってくる。斬っても斬っても襲いかかってきて、なかなか死なない……」
「ああ、アレか。愚かなニンゲンのなれの果てだ」
「人間? あれが……? どういうことだ」
「呪いだ。なかなか死なないというのは、間違いだ。あれらはすでに死んでいる。死んでいるからこそ苦痛などはなく、頭と胴体とを切り離すか頭を潰すまでは何度でも立ち上がる。死んでいるからこそ意思などはないが、それでも狂猛なほどの食欲と永遠に癒されることのない飢えにとりつかれているがゆえに、新鮮な肉に襲いかかる。それでもこの呪われし地に縛られているがゆえに、外から内へと来る貴様のような愚か者の肉しか食めないからな、群がってくるのはあたりまえだ」
 言いながらもやはりそちらも抜けない杭を相手に疲れてしまったのか、竜はもがくのをやめて静かにこちらを見据えてきた。
「身の程を知らずにわたしをここに封印した、そのツケだ。わたしがここから飛び立てば、奴らもこの地の束縛から解き放たれよう」
「おまえの……呪い、なのか? 竜というものは、獰猛で容赦ないと話にきくよりも随分と恐ろしい執念を見せるものなのだな」
 ふ、と笑うと、竜が首を傾げる。当然だろう、この場所からこの竜を解き放てば呪われたあの化け物たちも世界中に解き放たれる、と。そう聞かされているのだから。気味が悪い、と思われたのかも知れない、竜の少し傾いたあぎとの奥で、ずらりと並んだ剣のように鋭い牙が音を立てた。
「怖い、というわりに、怯えていないな」
「羨ましい、と思って」
 そう言ったゼフィルスの瞳がどろりとした色を浮かべるのに、竜はわずかに首を引く。
「憎悪と恨みだけで誰かを殺せるなら、どれほどかいいのに」
「代償は、必要だ。呪いというものは」
 ふ、と息を吐き出した竜のそれが身の内の疲労を滲ませた溜息のように思えて、ふとゼフィルスは顔を上げた。すると、
「ときに、貴様。変わった色の瞳をしているな。孔雀の羽根のような、蝶の翅のような……青と緑とに移ろう美しい色だ」
 どうやら、人間よりもずっとよく見えるのだろう。不意にじっと瞳へと視線を注がれて、ゼフィルスはゆるく瞬きをした。話を急に変えられたが、けれどこちらもそのほうがよかったかも知れない、とこちらもわずかに溜息を吐きつつ態度を和らげる。
 それに、美しい、とこの竜に褒められるのはいい気がしたのだ。
「母は、エルフだ」
 とくに隠す気もなく告げると、納得したように竜が瞬きをする。しかし、次の瞬間、ふたたび杭を抜こうと竜は巨体を揺らして動き出した。猛禽のものにも似た形の前足が酷い音を立てて石床を掻き、深く抉る。
「ならば手伝え」
「なにを」
「この杭と鎖を外すのを、だ」
「竜が抜けない杭を、襤褸のような形のこの俺が抜けるとでも?」
「封印の祭司が黒いエルフだった。半分とはいえエルフの血を引いているなら、その血で杭と鎖を錆びさせることくらいはできるだろう。現に、貴様はわたしを覆っていた石の封印を壊したではないか」
 そう言われて、なるほど、とゼフィルスはちいさく頷く。そして、ちら、と黙って息を殺しこちらを縋るように見つめてくるレヴィの姿を見て、
「……手伝ってもかまわないが」
 条件がある、と口にした。
 途端に、なにを条件に出されるのか予想していたのか、竜は厭そうに眼の下にしわを寄せる。
「知らん。ニンゲンなど、呪いで死滅すればいい」
「まだなにも言っていないが」
「この地に蔓延(はびこ)る呪いをすべて滅ぼし尽くす、それを手伝え、とでも言うつもりだろう。なぜわたしがおのれの憎悪を自ら焼かねばならんのだ。それに、わたしだけではない」
 ふと、竜が崩れた天井から覗く空へと鼻先を向けて、遠くを見つめた。そしてまるで哀しげに啼くように、真珠色の鱗を震わせる。
「わたしをここに捕え永久(とこしえ)の虜囚とする為に、何も知らされないままここに連れられ生贄にされた百人の乙女たちの、その恨みと恐怖と絶望までもをわたしが焼き捨ててしまうわけにはいかない」
 アレはわたしだけの呪いではないのだから、と。炎を吐き出したげに喉を震わせる竜に、けれどゼフィルスはゆるりと眉を寄せ、そしてちいさく首振った。
「……意外に、優しいんだな。だが、それでは困る。俺は、ここから生きて帰らなくてはならない。ユリの……妹のために。けれどそのためには、あの化け物を殺し尽くさなくてはならない。世界は腐っている。弱い者は踏み躙られる。静かに穏やかに生きることすら、赦されない。それが、許せない」
「世界は強いものが勝ち、弱い者が負ける。それは、世界の理(ことわり)だ。どれほどに恨み、呪ったとしても」
「それならおまえは、ここで朽ちるのを待つのか。こうしておまえが憎む愚かで罪深い人の手により楔を打たれ鎖に繋がれ、血を流しながらおまえよりも弱くちいさな蟲に生きながら肉を食われ、ゆっくりと腐って死ぬことを、おまえは受け入れるのか。負けを認めてただ世界を呪いながら、生きることを諦めるのか。俺は……嫌だ。このままこんなところで死ぬわけにはいかない」
 国王の命令などはどうでもいい。この地で化け物を殲滅してこいという命令、それは、ゼフィルスにここで死ね、というものだからだ。あの化け物たちが国王を食い殺してくれるのなら、竜と生贄の乙女たちの呪いをこの地から解き放ってもいいとさえ思う。
 けれど、妹がいる。まだ幼く無垢な妹ユリシスを、意思もなく制御もできない呪いに喰わせるわけにはいかないのだ。それにユリシスは人質にとられている。国王に人質にされているということすら知らず、王宮でゼフィルスの帰りを無邪気に待っているのだ。なにもせずにただ生きて戻れば、ユリシスは殺されるだろう。だからといってここでおとなしくゼフィルスが死ねば、守る者をなくしたユリシスは、駒のひとつとして扱われるか慰み者にされるか、あるいはその両方か、そう時を待たずにあの男の好きにされてしまうのだろうことはわかりきっている。自分と同じ目に合わせるわけにはいかないのだ。
 なんとしてもこの地の化け物を殲滅し、生きてユリシスのもとへ戻らなくてはならない。
 声は張り上げない。張り上げはしないが、それでも意志を込めて言葉を紡いだ。
 竜は伸ばしていた首を戻してこちらを強い視線で見据えてくる。それを見つめ返し、
「俺は、負けを認めてすべてを諦めるのは、嫌だ」
 一歩も引くものか、と踏み出す足に力を込めた。すると、
「……同意する。屈服し屈辱を受けたままに死するには、竜の矜持が邪魔をする」
 抑えられた低い声音が辺りに響く。
「憎悪も、絶望も、怨嗟も焼けというか」
「呪いながら朽ちたあとも永遠に縛られるつもりがないのなら、そうだ」
「……いいだろう」
 短く返し、竜はふたたび空へと鼻先を向けた。そして、建物を、大地を揺るがすような咆哮を長く、長くその喉から迸らせる。
 それはこれから焼き尽くす憎悪と絶望、怨嗟と怒り、そして嘆きを込めたような恐ろしい咆哮だった。
 全身の肌が粟立ち毛が逆立つようなそれを聞きながら、ゼフィルスは剣を抜き、袖を捲った左の腕へとぴたりと冷えた刃をあてる。
「……ゼフィルス様」
「レヴィ、少し離れていろ」
 言うなり、刃を引き左腕を軽く裂いた。そして滴り落ちる赤を竜の身体を戒める杭と鎖へ振りかける。
「錆びろ……!」
 竜を封じた黒いエルフの司祭が中心に行っただろう儀式も術式も呪文もなにも知らない。こんなことで強力な竜を長く捕えていた戒めが断てるのかもわからなかった。けれど、杭と鎖に編み込まれいまだそこを這うように動き続ける魔力へと、自分の血がすこしずつ作用するように強く思い浮かべて壊しにかかる。
 血が足りないのか、とさらに腕に傷をつけ、悲鳴のように自分を呼ぶレヴィの声を無視して、杭に腕ごと擦り付けた。
 そのとき、ふと、いつのまにか啼きやんでいた竜と視線が絡んだ。一瞬、息を忘れて、不意に天井から降る淡い光を受けて輝くその瞳に見入る。
 それはいままで見たことがない色をしていた。
 晴れた日の空よりも、国王の笏に飾られる極上の青石よりも美しい、雲のさらに上、天空の青はきっとこんな色をしているのだろうと思わせるような、透きとおって深い青。
 失血に息を乱しどこか朦朧と杭に縋ったまま、ゼフィルスはその力強くも美しく気高い生き物を改めて、見つめる。
 真珠の輝きの白い鱗と、金剛石のような硬質な輝きを放ちながらもやわらかそうでもある羽毛につつまれた翼、天空の青を映した双眸。
 蒼穹を飛べばどれほどに美しく輝くことだろう。
 こんなにも美しい生き物だというのに。
 その翼は深々と穿たれた杭で縫い止められ、その身体は雁字搦めに鎖で戒められて、自由と力、そして誇りを奪われ穢れた地に落とされている。
 そう思った途端、だ。この竜を捕らえる杭と鎖をひどく憎く思った。許せないのだ、と怒りを込めておのれの血を塗り込める。
「錆びろよ。壊れろ。邪魔を……するなっ!」
 がつ、と血に濡れた刃で杭を打つ。すると、
「……ぁ」
 耳には聞こえないが、どこかでなにかが割れるような音が響くような感覚があった。ついで、手元から耳に聞こえる音が響く。見ると、杭が見る見る錆びて、剣で突いたその一点から罅(ひび)が広がっていく。
 そして竜が、一層強く高く、咆哮した。
 翼を広げて貫いていた杭を粉々に砕き弾き飛ばし、全身を絡めとり戒めていた鎖を振り解いたのだ。
 レヴィを庇いながら倒れた柱の陰に滑り込むゼフィルスの頭上を、暴れる蛇のように鎖が弾け飛ぶ。
 とうとう戒めから解放された竜は、巨大な猛禽のものにも似た形の爪長い前足で崩れた壁と天井に空いた穴の縁とを掴み、羽毛に包まれたように見えるもののやはりかなり硬質のものであるらしい両翼と頭とでさらに天井を破った。
 薙ぐように壁と柱とを抉った鏃(やじり)のように尖った竜の尾の先が、ふと意思をもって目のまえで止まる。
 はっ、と視線を上げると、天井に獅子のように逞しい後足をかけた竜と視線が混じった。
 掴まれ、ということなのだろう。
「レヴィ、急げ。掴まるんだ」
 もはや素早く動くなど困難な状態ではあるが、それでもこのままここに置き去りにされるわけにもいかなかった。なにしろ、竜の喉奥ではすでに呪いを焼き尽くすための炎の玉がいくつも生み出されはじめているのだ。
 血を流した力の入らない身体を引き摺るようにして柱の陰から這いだし、レヴィの力を借りながら月長石のような尾の先に掴まる。すると、ふたりが掴まる尾をいとも簡単に持ち上げた竜が、そのままやや乱暴な仕草でおのれの背へとふたりの身体を放り上げた。
「っ!」
 固い鱗に強かに身体を打ちつけ呻くが、身体が落ちるまえに必死に手指がかかる場所を探す。痺れて感覚の薄れた手足を、背骨の上だろう角ほどではないがわずかに盛り上がった突起物にかけた。
 すると、それを感じ取ったのだろう竜がふたたび動き出す。建造物の屋根を崩しながらも巨体をその上へと持ち上げ、眼下に広がる赤黒い荒野を睥睨した。
 そしてそこに群がる黒く穢れた動く屍たちへと向かって、咆哮とともに喉から轟音と巨大な炎の玉とを次々に吐き出す。
 その熱に煽られて、ゼフィルスとレヴィは竜の背へと伏せた。直後、竜が両翼を広げたらしく、巻いた風に身体が攫われそうになる。思わず声を上げたはずだが、風で掻き消されて声が出ているのか出ていないのかわからなかった。
 そして、今度こそ恐ろしいほどの力が身体の上と下とで働き、まるで自分がひらひらと頼りない木の葉にでもなってしまったかのようにとてつもない速さでその力に呆気なく攫われる。
 轟々と耳元で乱暴に鳴る風とその圧で目も開けられないまま、しばらく。
 ふと風の唸りと圧が少しばかり緩やかになったあたりでそっと目を開けたゼフィルスは、そのまま言葉もなく大きく瞠目した。
 周囲にはなにもなかった。
 ただ、青い世界が広がっていたのだ。
 いや、正確には、身体の下には美しい真珠色に輝く真白い鱗がある。そのさらに下には熱く逞しい肉を感じるし、視線を動かせば金剛石のように陽光を強く跳ねて眩しく輝く羽毛に包まれた両翼があった。
 つまり、この真白く輝く竜は、自分たちをその背に乗せたまま雲よりも高く上昇したのだろう。
 赤黒く穢れた地上とは違い、そこは陽光を遮る雲がないせいでひどく眩しくそして暑いが、ひどく澄んでいるように思えた。
 そしてそこに、輝く真白い竜がいるのだ。
 わずかに苦しい息でゼフィルスは、それでも苦痛からではない震えが全身を走るのを感じる。
 自分とはまるで違うその気高くも美しい存在に、魂ごと惹かれるのを自覚した。
 その瞬間だけは、なにもかも、おのれのなかから噴き上がるような炎も深淵にわだかまる闇さえも吹き飛んでしまったようで、心どころか魂までもが解き放たれたかのような錯覚を。
 やがて風を捉えて停止飛翔していた竜は、一度強く羽ばたき眼下の雲に風穴を開けると、ぐ、と長い首を後ろへと引く。
 そこから炎の玉を地上へと打ち込むのだろう、真白い喉が炎を透かせて赤く光った。
 そうして、おのれとおのれのために贄として捧げられた乙女たちの憎悪と絶望、怨嗟と怒り、そして嘆きの形を、
 
 焼き尽くす。
 
 それはまさに、業火といえた。
 頭と胴とを切り離すか頭を潰さない限りは何度でも襲い掛かってくると言われたあの動く屍が、頭を潰すどころか消し炭と成り果てているのだ。飢えに飢えた黒い化け物はあちらこちらで恐ろしい地の底から響くような叫び声を上げながら、赤く黒く燃え盛る。
 地上にとぐろを巻く炎はこちらも燃やし尽くしてやろうと真紅の舌を伸ばすが、白い竜はおのれが生み出したそれをさらりと躱して、恐ろしいほどの熱風と視界を遮る黒煙のなか、傷ついている素振りなどわずかほども見せない力強い翼を地面に向かって一度強く打ち振るい轟音と土埃とを巻き上げると、ふたたび上昇気流を捉え高く上がった。
「ふん、零したか」
 ちら、と天空をうつしとったような青い瞳が蠢くその影を眼下に捉え、竜は呟く。
「アレも」
 燃やしてくれ、というゼフィルスに、しかし竜は喉から炎ではなく嗤い声を吐き出した。
「放っておいても増えはせん。あれ一匹くらい、見逃せ」
「それでは約束が違う」
「そう簡単に、恨みが消えるものか」
 そう続けられた言葉に、ゼフィルスは一旦くちびるを閉ざす。しかし、やはり、と溜息まじりに疲れ切った腕で剣を抜いた。
「すまない。簡単に消えないことも、消せないことも、わかっている。それでも、アレは殺さなくてはならない。それにそのほうが……眠れるんじゃないのか」
 誰が、とは言わずにゼフィルスがそう言うと、苛立つように牙を鳴らしながらそれでも竜は滑空の体勢に入る。
 羽ばたくことのない滑空の体勢ならば、とゼフィルスは風圧と熱とに耐えながら翼の付け根まで移動し、半ば焼かれながらもふらふらとこの業火に焼き尽くされた呪われた地から出ようとする化け物の上まで下りたところで、竜の鱗を蹴りその身を宙に踊らせた。そして落ちていくその勢いを力の入らない腕の代わりとし刃を振るい、黒く穢れた最後の化け物の首を狙って、斬り落とす。
 
 
 
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竜と死神 目次
 8周年記念ブツです。まだ……途中だけれど(≧へ≦;)
 血生臭く絶望に彩られたお話を書こうと思ったのに、なんか違う気がせんでもないです。
 なんだろう、妹以外はゴミ扱い設定のハズのゼフィさんが書き始めたらぽやっとしてきた。オカシイナ。
             ちなみに黒い化け物さんたちがぞんびってるのは、書いてる途中でバイ○ハ○ードをぷれいしとったからです。
             書き直したり……するかもしれませんが、続きが書けるようにがんばります!    2015.12.5
 
   
 

 

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