やさしい、は知らない。
 あるのは知っている。
 でも知らない。
 触れたこともないし、感じたこともない。
 どんなかたちをしていて、
 どんな色をしていて、
 どんな匂いをしていて。
 もらったこともないし、あげたこともないから。
 どんな手触りをしていて、
 どんな音がして、
 どんな温度があるのか。
 知らなかったんだ。
 
 
 しとしと、と。
 透きとおってまるい水の玉が、いまは灰色に染まる雲の向こう、その彼方から絶え間なく、いくつもいくつも冷たく降り注いでいた。
 足下に広がる白と黒のタイルで格子柄に配置された床の上で、水の玉はいくつものちいさな水の玉に弾けて別れ、また弾けては分かれて転がって、歪な円に広がる床の上、さらにはそのまんなかにぽつりと佇む者のちいさな身体を濡らしていく。
 床の外は、灰色の雲。上下左右、見渡す限りの雨雲だ。
 ここは、とあるこどもの夢。夢を具現化した、夢幻フィールド。
 本来ならふわふわきらきらと可愛らしくて甘い色をしているはずの場所。
「……これ、おまえの箱?」
 違うよな、とわかっているのに訊ねると、わかっているとわかっているからなのかそれともそうでないのかはわからないが問いかけには答えないまま、ずっと泣きつづけるこどもの夢のなか、ちいさな夢喰いはさきほどからじっと黙って遠くを見つめている。
「こういうとき、なんもできねえのな……俺らって」
 やるせないようにそう言って、長い耳をちいさなまるい手で乱暴に掻き毟るのは、短いがやわらかな手触りの毛並みを持つ、夢喰いよりもさらにちいさな灰色兎の縫いぐるみだ。
 縁に銀糸でステッチが施された兎の耳のかたちのフードをつけた裾短い黒の上着に、ベルトに飾られたズボンを着て、編み上げの半長靴に綿の詰まったちいさな足をねじ込んでいる。
「止まねえかなぁ」
 そう灰色兎が呟きつつ青い貝殻ボタンの瞳を上げて降り注ぐ雨をやわらかな両の前足で受けると、隣りに佇む彼の主が真紅の瞳の温度のない視線をちらりと寄越した。
 しっとりと濡れる灰色の毛並みを見、自分の黒髪に飾られた黒い羽根と銀の薔薇がひとつ咲くミニシルクハットを濡らす雨を見て、こどもの姿を模した夢喰いたる漆黒の闇の主は薄紅色のちいさなくちびるをそっと開ける。
「……止んでほしいの?」
「そりゃあな。だってさ、これ、すっげえ冷たいんだぜ」
「……僕は、いつも冷たい」
 フリルとレースに飾られた白いブラウスと袖に銀糸の縫い取りで縁を飾られたベストとジャケット、クロップドパンツを身に着けたちいさな王子様のような愛らしい恰好をしてはいるものの、感情の窺い知れない抑揚ない声音で無表情のまま言葉少なに言う、どこか闇の深淵から這い上がってくる冷気のような薄気味悪さすら感じさせる主に、灰色兎はふたたび長い耳を掻き毟った。
 主の体温が低いのはすでに知っている。けれど、じっと触れているとほのかに温かいということも、灰色兎は知っていた。
 だからその白すぎるほどに白いちいさな頬が、冷たい雨に冷やされるのは厭だった。
 少しでも温まればいいのに、と思いつつもそれについては無言で、何気なくぴょんと主のすぐ足下へと身を寄せる。そして、
「なあ、喰うの?」
 と、そう訊ねた。だがそれも、答えのわかりきった問いかけだとわかっている。
 闇の夢喰い『ナイトメア』は、人のこどもの楽しい夢、幸せな夢しか食べないのだ。ほんの少し齧ったその幸福な夢のかわり、おなじ質量だけ闇から生まれた夢の箱を置いて去る。
 幸福すぎると夢の世界から帰りたがらないこともあるこどもたちに、奇妙でおかしな悪夢が入った闇の箱を。それを開けて夢から現実に、怖い夢からやさしい母の胸に戻っていけるように、ナイトメアは存在するのだ。
 だから、冷たい雨を降らせるこどもの夢は必要ないし、必要とされない。
 そうだというのに、さきほどからずっと主はこのこどもの夢から離れようとはしないのだ。
 夢を刈り取る漆黒の三日月のような刃を持つ身の丈よりもずっと大きな鎌を頓着なく引き摺りながらふらりと立ち寄り、そしてなにもせずにただ立ち尽くしている。
 悪夢を見せるナイトメアとはいえ、はじめから悲しみに満ちた夢にはなにか思うところがあるのだろうか、とそう思って声をかけてみたはいいが、主からはたいした反応が得られず灰色兎はほんのすこし不安に思った。
「食わない、よな?」
 たとえばはじめから悲しみに満ちたこどもの夢をナイトメアが食べたなら、そのこどもはどうなってしまうのだろうか。悲しみの上にさらに恐ろしさを足してしまったなら、そのこどもの心は、どうなってしまうのだろうか。
 重ねて問いかけた灰色兎を、硝子玉のような瞳がふたたびちらりと見下ろしてくる。
 そして、不意に、
「……灰色兎は、やさしい」
 不気味に見えるほどに冷たく白く整った顔は、わずかほども表情を動かさないまま。しかし常は抑揚なく虚ろに響く幼い声がわずかに吐息に滲んで、そう言った。
「え、何言ってんの、急に。褒めても綿しか出ねえよ?」
 思わず驚いて声を上げた灰色兎だったが、主の長い睫毛が漆黒の蝶の翅のようにゆるやかに動くのを目にして、ほんのわずかに困惑する。
「……え、と。綿いる?」
 兎耳のフードに隠すように背負った銀色のカッターナイフと金色の洋裁鋏。さて、そのどちらで自分の布を裂いて腹のなかにつまる綿を取り出そうか、と冗談めかして腕組みをして首を傾げる灰色兎に、
「……綿は、食べない」
 そっと夢喰いは首を横に振った。しかしすぐに、でも、と言葉をついだ。
「綿は必要かもしれない。あと、布と糸も」
「あ? 誰か来んのか」
「……そう、したいのなら」
「うーん。ちょっと意味わかんねえんだけど。ええと、でもまあ、おまえが本当にそうしたいなら、そうしろ。おまえが決めろ。そんで、もしおまえが間違ってると思ったら、そんときは蹴り入れてやるよ。俺はな、ダーク」
 ダーク、と愛おしいものへと向ける甘さを含んだ声音で主を呼び、灰色兎は綿となにか目に見えないなにかあたたかいものが詰まった胸を張り、
「俺は、おまえのファミリアー・スピリッツだからな!」
 ふふん、と誇らしげに言った灰色兎に、しかし主はゆるりとひとつ瞬きをして、わずかに首を傾げた。
「あれ? いまちょっと感動するとこじゃなかった?」
 言ってみるが、返るのはただただ無言だ。
 ひでぇ、とがっくりと長耳ごと項垂れる灰色兎だったが、艶のある黒い靴がその場でくるりとまわるのを視界に入れて顔を上げると、主の漆黒の大鎌が横に一条、白と黒のタイルの敷き詰められた床のその数歩先に、す、と紙を切るように切れ込みを入れたのが見えた。
「どこにいくんだ」
 闇色をした切れ込みからずるりと見えないなにかにひっぱり上げられるように現れたのは、美しい草花の彫刻が施された漆黒の重厚な扉だ。
 見るからに重たげな大鎌の柄を、しかしなんの重量も感じさせないさまでくるりと持ち替え、音もなく三日月のかたちをした刃をふたたび床につけると、主はそれをずるずると引き摺って扉へ向かって歩き出す。
「ねえ、ゴシュジンサマ。ひとの質問にはできるだけちゃんと答えようよー。聞いてんのか聞いてねえのかわっかんねえし、俺様ちょっぴり悲しくなっちゃうよ? ねえねえ」
 言っても無駄だろうと思いつつも愚痴る灰色兎だったが、ふと扉のまえで振り返った主に、自分も思わず足を止めた。
「あ、うるさかった?」
 灰色兎は、もしかして怒っちゃった? とわざとらしく可愛い子ぶって小首などを傾げてみる。
 しかし、主はとくに気にするようすはなく、というよりは通常通りの無表情のまま、
「……どこにいくのかは、わからない。呼ぶ声が聞こえたなら、そこに。僕は……闇だ。幸せな夢はあげられない。もしも光がここに気付いたなら、ここに戻る必要もないけれど……光が近くを通るかどうかは、わからない。むしろ、通らない可能性のほうが高い。だから……この雨を止ませたいのなら、行こう」
「うん、やっぱちょっと意味わかんねえ」
 大真面目に頷いて、灰色兎は主の足下まで歩み寄る。そして今度は本気で小首を傾げた。
「ってか、光ってなんだよ」
「……『ドリームキーパー』。悪夢を食べて、幸福な夢をおいていく光の夢喰い」
「ダークとは真逆ってことか。どっちもレアキャラだよな? 夢喰いって数少ないんだろ。おなじこどもの夢で鉢合わせ、なんてことはあんまりなさそうだな。ちょっと見てみたい気ぃするけど、通らないだろうなー」
「……鉢合わせたら、殺しあい」
「あー、そうなんだー。ふーん。って、マジかっ!?」
「……たぶん、そうなる」
 まだ会ったことはないから予想だけれど、と言う主にほんのわずか間をおいた灰色兎は、床を蹴り上げ飛び上がると、とん、と主のちいさな肩を空中で押す。
「まあ、そうなりゃ全力で戦ってやるから安心しろ。ってことで、なんかわかんねえけど行こうぜ。呼ばれたなら行くんだろう、そこに。もしも綿とか布とか糸とかがいるってんなら、俺様が超絶美技を炸裂させてやるぜ!」
 主が漆黒の扉を開くと、むわり、と扉の向こうにある闇の回廊のさらに向こう側から濃厚な雨の匂いが漂ってきた。
 じわ、と湿気を吸った灰色の毛並みが重い。
 思わず溜息を吐きたくなるが、この向こうに主を呼ぶものがあるのかも知れない、このこどもの夢に降る雨を止ませることができるのかも知れない、主の頬を冷やさずに済むことができるのかも知れない、と灰色の毛並みを勢いよく震わせて軽く湿気を飛ばした。
 背後で閉まる扉がゆらりと闇に溶けて消えるのを見送って、灰色兎が青い貝殻ボタンの瞳で闇の向こうを見据えていると、
「……あと、うるさくもないし……怒ってもいない」
 思い出したように、主がそう言った。
 意外にも律儀であったのかただの気まぐれであるのかどうなのか、どうやら質問にはすべて返答してくれる気にはなったらしい。
 
 
 
 
 痛い。苦しい。寒い。寂しい。辛い。
 ぬかるんだ泥の大地を、その大地に近く低いところにあるひどく濡れたなにかを、大粒の雨が容赦なく叩きつける音がする。
 濃密な雨の匂いと、血の匂い。
 冷たい雨は熱を奪い、潰れかかった生命を押し流そうとしているらしい。
「灰色兎はここで待っていて」
 闇の回廊の先、これまでと全く別の景色を向こうに見せる扉を開けた途端、ダークがやけにきっぱりとした口調でそう言った。
 なんでだよ、と言うつもりだった灰色兎は、しかし喉に綿とは別のなにかが詰まったように、ぐ、と押し黙る。
 恐ろしいほどの闇を、扉の向こうに感じたのだ。
 眠りのなかでみるものではない、現実の世界で与えられる苦痛と孤独、絶望に染まった悪夢の気配。誰かがいま、深淵から浮かび上がったその悪夢に囚われ、飲まれているのだ。
 身に覚えのある、恐怖だった。
 『夢見る者』と主が呼ぶものだった頃のおのれがなんであったのか、どういう存在であったのかは、もうほとんど覚えてはいない。ファミリアー・スピリッツになるとその記憶が急激に薄れてそのまま消えてしまうのか、それとも自身でもおのれがどういうものであったのか最期までわからないままであったからなのか、覚えてはいないのだ。けれど、冷酷に無残に生命を奪われたその瞬間の悪夢は、魂に深く鋭く刻まれていた。
 咄嗟に恐怖を抱いてしまったおのれに嫌悪し、そんなことでどうするのだと叱咤して震えそうになる後足を前へと出そうとするものの、見えない氷の糸で縫いつけられたように身体が動かない。
 異臭が充満するビニール袋に鼻と口とを塞がれたように、息苦しくてたまらないのだ。
 それが、ひどく悔しかった。
「灰色兎は、超絶美技を炸裂」
「……え?」
 主のちいさな背へとぎくしゃくとまるい顔を向けると、主はゆるりと細い肩越しに振り返る。
「いまできることを、しよう」
 相変わらずの口調。相変わらずの、無表情で。
 けれど、闇のなかで鳩の血色に輝く宝石のような真紅の双眸が、冷たさの奥底に生命の熱を感じさせて美しく輝くから。
 灰色兎は、ぐ、と四肢に力を込めた。
 ふと、青い貝殻ボタンでできた瞳の裏側に、魂に刻まれた光景を見る。
 苦痛と絶望でできたビニール袋の向こうで、その瞳が輝いていた。ビニール袋を破り、折れて拉げた身体を拾い上げ新しい空気を吸わせてくれたのは、この主だ。
 声が聞こえたから来たのだ、といまよりもずっと感情のない白い顔で、主はそう言っていた。
 覚えている。
 悪夢とともに刻まれた、その魂の記憶を。
「……呼ばれたか、ダーク」
 俺みたいなやつに呼ばれたのか、とは言葉にはしないままに問いかけると、主は無言で静かにちいさく頷く。だから、
「わかった。こっちはまかせろ」
 そう言って、灰色兎は深く頷いた。
 そして灰色兎と大鎌とをその場に残して主が扉の向こう側へと消えていくのを見送ったあと、ふう、と綿が詰まった身体から奥底にわだかまっていた冷たいものを熱へと変えて吐き出し、いつのまにか回廊の壁にまるく現れている闇の穴へと前足を突っ込んだ。
 灰色兎による超絶美技のために主が残した主の力の領域であるその闇から、ずるり、と望むものを大量の漆黒の羽根とともに引き上げる。
 現れたのは、金色の硝子製のボタンを瞳に持つ漆黒の長い毛並みが艶やかに美しい猫の縫いぐるみだった。
「猫ちゃんかぁ」
 くたりと闇色の床に転がる綿しか詰まっていない縫いぐるみを、灰色兎は青い貝殻ボタンの瞳でじっと見つめる。
 痛い。苦しい。寒い。寂しい。辛い。
 こみ上げる感情にかすかに震えながらやわらかな毛並みを、そっと、そっと撫でて。
「めっちゃかっこよくしてやる」
 力強く言うなり、ふたたび闇の領域につながる穴へと前足を突っ込んだ。
 そうして、しばらく後。
 金糸で縁飾りなどが施された軍服のようなかっちりとした丈夫な生地の黒いコートにズボンを纏った黒猫のぬいぐるみの腰に、自分のフードの下に隠し持っていた派手な装飾の金の洋裁鋏を金の鎖で吊るしてやる頃、閉ざされていた扉が音もなく開かれた。
 湿り気を多く含んだ空気が流れ込んできたことでそれに気付いた灰色兎が顔を上げると、黒い羽根を飾るミニハットに銀色と金色の薔薇を咲かせた主がゆっくりと戻ってくる。
 一歩一歩、主が歩くごとにその足下から生まれて蛍のように浮き上がる赤い燐光を、じっと灰色兎は見つめた。
「新しいファミリアー・スピリッツを、連れてきた」
 言いながらそばに座らせていた黒猫の縫いぐるみを持ち上げた主に、ああ、と返事をする。
「……蹴る?」
「いや。蹴らねえよ。少なくとも俺は、耳毛の先っぽほども後悔してねえ」
 長い耳を揺らして胸を張ってみせると、そう、と主は短く呟くように言って、そして腕のなかの縫いぐるみをじっと真紅の双眸で見下ろした。
 ゆらりゆらりと飛ぶ燐光に照らされた黒猫は、いまにも動きそうだ。
 これがどういう仕組みでほんとうに動き出すのかはまったくわからないが、主のもとで新しい生を得る新しいファミリアー・スピリッツが、ファミリアー・スピリッツとなったことをおのれと同様に後悔などせずに散々に踏み躙られた魂をこの主の傍で癒せたならいい、と願う。
 そう願いながら、灰色兎はじっと黒い毛並みを見上げていた。
 すると不意に、
「……あのこどもは、ね。知っていたんだ」
 と主が言う。
 どんなふうにかは知らないけれど、と主は黒猫の頭をさきほど灰色兎がそうしたように、ちいさく白い手指でそっと撫でた。
「やさしいんだろうな、きっと。でも、なにもできなくて泣いてるんだ。まだちいさくて、弱いから。だから、あのこどもは泣いてるんだろう」
 主の言葉を引き継ぐようにして灰色兎が言うと、そうだね、と主が呟くように言い、
「だから。僕のファミリアー・スピリッツ『黒猫』。一緒に、行こう」
 黒猫、と腕に抱いた縫いぐるみに、そのなかに大切に包みこんだ魂に、呼びかける。
 
 
 
 
 
「雨は、嫌いだ」
 ふたたび訪れたこどもの夢のなか、黒猫がぽつりと呟いた。
 はじめて発した声音は毛並みと同様に艶のある低いもので、灰色兎はほんの少し、ほんとに少しだけ、がっかりしていた。
「……なにそのイケボ。なんつーか、もうちょっとさー、俺様、相棒には可愛げっていうものがほしーい」
 思わず口に出して文句を言うと、は? と黒猫がまるい顔をしかめる。イケボとはなんだ、というようなことを問われた気がするが、どうでもいいので放っておいた。
 目のまえで、主が闇の箱を展開しているのだ。この瞬間は、飛び出す絵本かなにかのようで不思議で面白いから、見逃したくはなかった。
 案の定、黒猫もすぐに灰色兎の発言よりもそちらのほうに気を取られたらしい。
 カタカタと音を立ててちいさかった闇の箱が展開し、そのなかからぐらりと灰色の雨雲を割るように黒と赤の緞帳を下げた巨大な舞台装置が現れるのを、ぽかんと見やっている。
 雨雲に包まれた薄暗い夢幻フィールドで、その一角だけがさらに彩度と明度が低くなり、瞬間、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。やがて、かすかに軋みながら緞帳が上がり、金銀の紙吹雪が暗い天井から舞い落ちてくる。
 音のずれた曲に合わせてぎこちなく回りだす回転木馬や、傘を手に踊り子人形がくるくると舞い始めるのを見やり、
「どうすんだよ、ダーク。甘い夢はねえぞ」
 甘い夢をひと齧り。その分だけ、闇の箱を置き去りに。
 けれど、いまこのこどもの夢には、星のかわりに降る金平糖も雲のかわりに湧く綿菓子も花のかわりに咲く飴細工も見当たらない。
 甘い夢がないのに闇の箱を展開していったいどうするつもり、と灰色兎は舞台装置へと身軽に飛び乗りその板張りの床へと腰を下ろす主の後を追い、その隣りへと跳び上がりながら問いかけた。
「悪夢に悪夢を足したりして……大丈夫なのか? このこどもも……おまえも」
 雨は降りつづけている。むしろ、勢いを増していた。
 けれど、
「……後払い。今回だけ、特別」
 主の短い言葉に、え、と灰色兎は濡れた毛並みを払う前足を止めて主を振り返る。そこに、黒猫、と呼ばれて、まだどこか不安げなようすを見せる黒猫が主の隣へとやってきた。
「……雨は、嫌い。そう言ったね」
 主に問われて、黒猫が頷く。
「泣いてほしく、ない。泣かせたくない。涙を拭いてあげたいのに……けれど痛くて、苦しくて、寂しくて、怖くて……散々に踏み躙られた身体が、動かない。行きたいのに。生きたいのに」
「……え……」
 戸惑う低音を縫いぐるみの喉から洩らした黒猫は、もう自分が夢見る者であった頃の自分がなんであったのか、どういう存在であったのかが分からなくなっているだろう。けれど、漆黒の闇の主を『呼んだ』ものは恐怖とともに魂に刻まれているのだ。
 生きたい。ここで負けたくない。強くなりたいのだ、と。
 ぐ、と軍服のような黒衣の胸元をまるい前足で掴んだ黒猫は、まっすぐに主の鳩の血色の美しくも恐ろしい双眸を見つめていた。
「まえのきみにはできなかったけれど、いまのきみにならできるよ」
 そう言って、黒猫の胸元を主は指さして、
「僕も……手伝おう」
 そのちいさな背に、闇の羽毛に包まれた漆黒の翼を音もなく広げる。
 常にはないそれは、主の力を視覚化したものだ。けれどそれはこちらの頬をそっと撫でるように、確かに空気を揺らす。
「灰色兎も、手伝ってくれるから」
「……え」
 驚いてまるい金色の硝子玉の瞳をさらにまるくするような黒猫に、灰色兎はその場でぴょんぴょんと跳ねて見せた。
「ったりめえだろうが、俺はダークのファミリアー・スピリッツだ。そんでもって、きょうからおまえのめっちゃ素敵にカッコいい相棒様だからな!」
「……間違ったら、蹴られる」
「おうよ! 蹴っちゃう蹴っちゃうぅ。俺様の凶暴に可愛い黄金のあんよから繰り出される愛に満ちた超高速キックは大地をも抉るぜ!」
「……灰色だけど」
「そこ気にすんな!」
 からからと笑って、灰色兎は無造作にふさふさと長い黒猫の尻尾を掴む。
「にぎゃっ! おい、貴様なに、をっ! うわっ!」
 尻尾を掴まれた黒猫が文句を言うそのまえに、灰色兎は全身に力を込めてぐるりと尻尾を掴んだまま回転すると、そのまま黒猫の身体を宙へと放り投げ、さらにおのれの脚力を最大限に生かして後を追うように跳躍した。
「なにをするっ!」
 空中で身体をうまく捻り、迫る灰色兎へとない牙を剥いて怒鳴った黒猫に、灰色兎は内心でにやりと笑いながら勢いを落とさないまま体当たりをし、さらに上空へと弾き飛ばす。
 そして、
「楽しく暴れようぜ、くろにゃんこちゃんよ!」
 背後に遠ざかる舞台装置。その一点から押し寄せる大きな闇色をした力の波を、わずかも抵抗することなく受け入れた。
「わっ、ぶっ」
 ぶわり、と力の波とともに押し寄せた漆黒の羽毛を真正面から浴びた黒猫がもがく。それへ向かって灰色兎は、精々面白可笑しなポーズをつくってからかってやった。
 元々あまり気が長いほうではないらしい黒猫は呆気なく挑発されてまた跳びかかっていくが、灰色兎のふんわりまるい尻尾にぽよんと弾き飛ばされる。さらに、灰色の雲の向こうから不意に飛び出した薄いピンク色をしたマシュマロに、黒猫が立て続けにぽよんぽよんと弾かれた。
 弾かれても転がされても、可笑しなポーズでからかい続ける灰色兎に負けじと跳びかかっていく黒猫のうえに、白い金平糖が降り、黄色の飴玉が転がる。
「逃げるな馬鹿兎! そのもつふもふの尻尾、ひっこぬいて鼻の頭に縫い付けてやる!」
 怒鳴りながらも、けれどどこか楽しそうに、黒猫は甘い色に染まりはじめる夢のなか、灰色兎を追いながら駆けまわった。
 漆黒の闇の主の、悪夢。その欠片が、軋む音楽に合わせて羽毛のように舞い、金銀の紙吹雪とともに積もる。
 悲しいくせに不思議に可笑しな、冷たいくせにどこかやさしいような気がする、それに。
 いつのまにか、雨は止み。
 木馬や陶器人形がくるくると踊り、猫と兎の影絵が跳ね回る舞台装置に座って靴を揺らしながら、主はちいさな口に、甘い、甘い色をした飴玉のかたちの夢をひとかけら、黙って放り込んだ。
 そして、綿菓子の雲を蹴散らしながら跳ねまわる灰色兎は、跳びかかってきた黒猫をしっかりと受け止めたついでにまた遠くへとぶん投げながら、あひゃひゃひゃ、と奇妙な声を上げて晴れやかに楽しげに、笑った。
 
 
 
 
 
 やさしい、を知った。
 あるのは知っていた。
 でも知らなかったから。
 触れて、感じて。
 それがどんなかたちをしていて、
 どんな色をしていて、
 どんな匂いをしているのかを、知って。
 それを、もらったから。
 だから、
 あげたい、と思ったんだ。
 

The Dark 目次

 7周年記念の短編です。今回も番外です。
 めっちゃ遅刻です。半年遅刻ですあわわ。なんてこった。
 そして、タイトルが黒猫さんなのに、やっぱり番外は灰色兎さん視点(笑)。
 まだ暴れん坊じゃないんです、灰色兎さん。黒猫さんという相棒を得て、なんか壊れるんだね……
 ダークも、ちょっとずついろんなものを覚えていってるはずです。きっと。
 三人とも仲良くしてね。    2015.5.11

inserted by FC2 system