目を閉じても。
目を開けても。
ただただ真っ暗、なにも見えない。
耳を塞いでも。
耳を澄ましても。
ただただ真っ暗、なにも聞こえない。
ただただ真っ暗、からっぽで。
ここにいるのか、いないのか。
ただただ真っ暗、なにも、なぁんにもなくて。
じっ、と見られていた。
純度の高い生命の赤。
温度も感情も感じられない硬質な冷たい宝石のようなようであるのに、色ばかりは鮮やかに燃えるような血の色をしている。
その、美しいがどこか不気味である双眸で、得体の知れない『それ』はもう長い時間こちらをただじっと見ていた。
こちらとしては、しつこく眺められてもすこしも面白くはない。眺めているあちらにしてみれば、面白いのかも知れないが。
なぜならこの魂を覆っているのは、血で縫い繋がれた温かい肉の身体ではなく、糸で縫い繋がれた布で綿を包んだ縫いぐるみだ。そんなものが誰の手に操られることもなく自分の意思をもって動くなど、面白いに決まっている。
そう考えてみたが、いや面白いだろうか、とやはりすぐに首を傾げた。
そもそも、すでに使い物にならなくなっていた肉の器からこの灰色の短い毛におおわれた縫いぐるみに自分を移し替えたのは、真紅の双眸でこちらを眺め続ける『それ』だ。
冷たく整った白くちいさな顔には表情の欠片もなく、人の子どもを模した血の通わないひどく美しい陶器の人形のように見える。いや、さきほどから指先ひとつ動かさないものだから、ほんとうに人形なのではないかと思えた。縫いぐるみの自分がそう思うのもどうかとは思うが。
『それ』はきょう、悪夢に喰われた自分の主となった『闇』だった。
漆黒の闇を纏う、夢喰い。
「夢なんか食って、腹が膨れるのかよ」
夢喰い、がなんであるのかがいまいちよくわからず、そう訊ねた。
声は、もごもごとぎこちなく動かした布の下から響く。どういう仕組みで発声しているのかは自分でもさっぱりわからなかったが、まあいいか、とそのあたりのことは深く考えないことにした。どうせ考えたところで自分にわかるはずがない。縫いぐるみが動くくらいだ、出ないはずの声が人の言葉を紡ぎ飛び出したところで、もう驚かない。自分が発した言葉が主となったばかりのちいさな子どもの姿をした夢喰いに通じれば、それでいいことにしよう、と。
そしてそれは、人形のような主の白い顔についた、ちいさな薄紅色のくちびるを動かせることに成功した。
「……お腹が膨れる、ということとは違うのかも知れない」
抑揚がないせいでそら寒く暗いように響く声音で、主はそう答えた。
「じゃあ、なんで食うの?」
さきほどとは逆の方向に綿の詰まった頭を少し傾げてみると、目のまえの主もこちらを真似てかおなじ方向へと首を傾げる。
しかしその仕草は、可愛らしいというより、鳩の血色をした双眸はすこしも揺らさずこちらをじっと見つめたままであるから、やはりすこしばかり気味が悪いような気がした。
それでも嫌がろうとか逃げようなどとは思わない。表情ひとつ変えない主ではあるが、自分の問いに敵意や害意のない答えをくれるだけ親切だったからだ。
「……夢を食べないと、動けなくなってしまうから」
「なんでだよ」
「……さあ。なんでだろうね」
意地悪でそう言っているのかとわずかの間そう疑ってみたが、主の首の傾きがさらに深くなり、つられて傾きを深くしたこちらの頭の重みで座っていた体勢が崩れかけたことをきっかけに、溜息まじりにそのささやかな疑惑は打ち消す。
たいした問いではないか、と思い直したのだ。
食べないと動けなくなるのは、生きた経験があるものからすれば当然のこと。
腹が膨れるというわけではないのは、食べるものが物質として触れることのできない夢であるから。
そして、夢を食べないと動けなくなるのは、夢喰いだからだ。
それ以上に、夢喰いたる主が答えを持っているとは思えなかった。
「俺も、夢とか食うの?」
それって美味しいのかな、と布地の向こう側で呟くと、主はちいさな手を静かにこちらへと伸べてくる。
「っ……!」
思わず、びくり、と布と綿に包まれた魂が怯えて震えた。
なにをされるか知れない恐ろしさから自分を守りたいのに、目を閉じることすらできずに新しくも頼りない身体を固くする。
主は、こちらが身動きできないことに気付いているだろうに、それでも手を伸べることをやめず、そのままちいさな縫いぐるみの頭に触れた。
そして、しばらく静止する。
やがて震えが落ち着き、なんなのだろう、とこちらが顔を上げようとした瞬間、頭に置いていたその手を動かした。
ゆるやかにそっと、ちいさな命がここにあることを確かめるように。
「……え、と……?」
戸惑ってかすかに声を出すが、主はこちらを撫でる手を止めない。
灰色の短い毛は見た目よりもやわらかく、手触りが良さそうだ。自分ではよくわからなかったが、主の白い手がこちらを撫でるのをやめないのだから、おそらくは良いのだろう。
以前の身体がどんなかたちをしていたのかは、もうわからない。わからないが、そう遠くはないかたちを与えられたのではないかと思う。
この主が、まったく別のかたちをつくれるほど器用そうには見えなかったからだ。
今度は頭の上、左右についた長耳を撫でている。
声音はひどく冷たく暗くさえあるのに、その手つきがどこかぎこちなくもひどく優しいのが不思議だった。
こんな扱いをされたのははじめてで、どう反応していいのかわからない。くすぐってぇ、と鼻を動かそうとしたが、まだ新しい身体に慣れていないためにうまくいかなかった。
やがてふと、ごめんね、と不意にちいさな声で謝られて、一体なんだ、と主の白い顔をじっと見上げる。
「……食べられないんだ」
さきほどの問いかけに対する、答えだった。
縫いぐるみだからなにも食べられないんだ、とそう言って、漆黒の蝶が翅を震わせるように、主がゆるりとひとつ、真紅を縁取る長い睫毛を上下させる。
ああ、綺麗だな、と。
食べる、という楽しみをひとつ奪われたというのに、それを見てそんなふうに思った。
けれどすぐに、足下に広がっている闇がさきほどよりもさらに冷たくなったように思い、溜息まじりにちいさな頭を、乗せられた手を振り落してしまわない程度の力加減で横に振った。
「あぁ、うん。そうだよな。なんかいまの俺、可愛い気がする縫いぐるみだし。食べられるわけないわ。出せる気もしねえし」
「……僕が動いているなら、動けるから。だから、食べなくてもいいんだ……」
「そうなのか。そりゃ、アレだ。食べる手間が省けるってことは、便利だな! まあ、だから、その……泣くなよ?」
なぜか、泣いた、と思ったのだ。
表情など、白い顔のどこにも見当たらないというのに。
「……きみを、連れてきてしまった。こんな、ところに」
抑揚など、幼い声のどこにも感じられないというのに。
なぜか、悲しんでいるような、そんな気がして。
こんなところ、と主が言う場所を、ぐるりと見回した。
不思議と主と自分の姿はわかるが、それ以外はただ、闇だ。
なにもない、ほかに音すらない深く恐ろしい闇だった。
どこまで続いているのかも、知れない。
そこに、ぽつん、と主と自分は座っていた。
「ずっとここにひとりでいたのか?」
まだ思うように動かない身体を無理に動かしよくまわりを見ようとするが、ただ冷たく深い闇が広がるだけで、やはりなにも見えない。
ひどく、寂しい場所。
「こんな、ところに?」
こんなところにひとりでいたら、自分ならきっとすぐにくるってしまうだろう。それなのにここにいたのか、と。そう訊ねると、
「……そう。でも、さっき」
でも、と主がそう言うので、また真紅の双眸へと視線を戻すと、主はじっとその瞳でこちらを見下ろしてくる。
「さっき、ね」
「うん」
「さっき……きみの声が、聞こえた」
「俺の、声?」
そんなはずはない。
なぜなら喉は潰されていて、鳴き声ひとつ上げられなかったはずなのだから。声のない悲鳴など、誰の耳にも届かなかったはずだ。
それでも、否定する気にはなれず、まっすぐに見下ろしてくる真紅を見つめていると、
「……綺麗な声だったから、欲しくなった」
そう、言われた。
そう言われて、閉じることのできない固くて冷たいなにかでできた自分の瞳が、急に熱くなった。
「……だから、ここから出て声のするほうへ行ってみた。そうしたら、いまにも潰されそうな命が、そこにあって。潰されそうなのに、とても綺麗で。もっと、欲しくなった」
「そんな、ふうに……言われたのは、はじめてだ」
「……ごめんね」
ふたたびちいさく謝られて、綿の詰まったちいさな手を伸ばし、さきほどまで触られていた長耳の端を掴んだ。そうして少しだけ、掻き毟る。
「いや、それは別に、もう……いいって」
「……いいの?」
「ああ。どうせ、ほっとかれたら死んでたんだし。ってか、もう死んでんだっけ? とりあえず、おまえがさ……ええと、なんちゃらすぴりっつ?」
「ファミリアー・スピリッツ」
「そう、それな。それになってくれって言うから、なってやってもいいかなぁ、て思ったっつーかさ。だから、それは気にするな。俺の意志だ」
食べる楽しみを奪われたとしても。
温かい血肉を捨てさせられたのだとしても。
風の流れと土の匂いがする眩しい世界から切り離されたのだとしても。
それでも、自分よりもずっと冷たく孤独で悲しいこの闇を、そのままひとりにしておきたくはない、なんて。
何故か、そんなふうに思ってしまったのだ。
「……きみの意志は、とても強い」
唐突にそう言われて、すこし驚く。
「だから、欲しかった」
主はまた、灰色の毛並みを撫ではじめた。
それまで抑揚のなかった声にわずかとはいえ力のある音を響かせて、そう言ったあと。
だから布と綿に包まれた魂が、ほわりと温かくなる。
「そうかよ」
「……うん」
ゆっくりと瞬く真紅の双眸に、そっと手を伸ばす。けれど、どこをどう触っていいのかがわからずに、暗い宙で縫いぐるみの手は止まった。
「なあ、暗ぇよ」
訴えると、また主が首を傾げる。
「……灰色兎の姿は、見える」
「あぁ、俺ってば兎ちゃんなのね。じゃなくてだな、ほかにも見えたほうがいいし、なんかあったほうがいいだろうが。なんかねえの?」
「……なにか?」
灰色兎を模した縫いぐるみは、うーん、と唸って首を捻った。
「ちょっとさ、外に出ねえ?」
「……外? どうして」
「ここでずっと暮らすんならさ、俺もなんか欲しい。どうせなら、楽しく暮らしたいし!」
そう言ってみせると、主が冷たく光る真紅の双眸をまるくした。
なるほど、とでも思ったのか。ほんのわずかであっても浮き出た表情に彩られるその顔が、なんだか可愛らしいな、と思って眺めていると、主がこくりと頷いた。
「じゃあ、行こう」
やけにはっきりとそう言って、主が灰色兎を抱き上げる。
「おい、いきなりだなー」
抱き上げてきた腕はひんやりとしていたが、じっとくっついていたらほのかに温かさを伝えてくるものだった。
それがなぜだかほわほわと心地よくて、灰色兎は少し笑う。
「あったけぇなー」
なんとなく嬉しくてそう言うと、主は驚いたように立ち止まり、真紅の瞳で腕のなかの灰色兎をじっと見下ろしてきた。
「……あったかいの?」
「ああ。おまえ、ちょっとだけあったかいな」
「……そんなふうに言われたのは、はじめて」
「そうかよ」
「……うん。灰色兎も、抱っこするとちょっとだけあったかい」
「そうかよ」
「……うん。あったかい」
すり、と。
大切なものに寄り添うように真白くやわらかな頬に擦り寄られて、灰色兎は、くすぐったい、と笑い声を上げた。
世界は平等ではなく、重く尊いはずの命はいとも軽々しく踏み躙られ、ほんのささやかな夢ですらその靴底の下で汚泥に消える。
腐りかけの生ごみと汚物が放つ強烈な異臭。
よれて薄くなりいまにも破れそうなビニール袋のなか、壊れたガラクタと食べ残しに混ざっても、もがこうとしていた。
叩きつけられ潰され折られた全身は赤黒く染まり、最早思うようには動かないのだろうに。
けふ、と赤黒い血を吐き出し、自分では動かせない身体がひどく痙攣する。
潰された喉からは、壊れた呼吸音しか出ないというのに。
それなのに、
生きたい、と。
平等ではない世界に不条理に与えられた苦痛と絶望に、このまま踏み躙られて消えたくはない、と聲なき聲で叫んでいたから。
汚物と異臭と血とが混ざりあった汚泥のなか、美しい聲でその魂が叫んでいたから。
だから、
生きたい、と。
そう、思った。
はじめて、そう思ったのだ。
手を伸ばしても。
聲を出しても。
ただただ真っ暗、なにも触れなくて。
ここにいるのか、いないのか。
ここがどこだか、誰なのか。
なにも、なにもわからなくて。
なにも、なにもなくて。
ただただ真っ暗、からっぽで。
からっぽだから、なにもないから。
欲しい、と思った。
闇のなかに、ぽつんと現れたのはほんのちいさな部屋だ。
どういう仕組みであるのかは知らないが、闇の外にある夢見る者たちが暮らす場所から戻ってきた主は、外で灰色兎が欲しがった家具やら雑貨やらを、なにもないはずの冷たくて深い闇のなかから次々に現出させていった。
白と黒のタイルで格子模様に配した床と、一見しただけで骨董だと知れる猫足の彫刻美しい長椅子と卓子。そして長椅子の片側の肘掛から垂れる、くすんだ臙脂色の絹天鵞絨。
そして、外へ出るときにはなかったが外から戻るときには現れていた、細かく重厚な意匠の彫刻が美しい黒い扉がひとつ。
それらが、草花の装飾が施された燭台に刺さる蝋燭のほのかな灯りに照らし出されている。
「おお、すげえ」
あっという間にできた新しい部屋に感嘆の声を上げた灰色兎は、卓子の上に乗った金縁の手鏡を見つけると、それを手に取りそこに映った自分の姿をまじまじと眺めた。
そこに映った自分の瞳は、青くてまるい真新しい貝殻ボタンでできている。それがまるい頭に可愛らしく配置されていた。
短い灰色の毛並みに、長い耳。
お尻にはふわふわの丸い尻尾もついていた。
「これが俺かぁ。か〜わい〜」
ふんふん鼻を鳴らしながら床を強く蹴り、その脚力を試す。
「もっと強くなれっかな?」
縫いぐるみだから無理だろうか、とひとりごとを呟くと、いつのまにか背後に座り込んでいた主がどこか楽しそうな色を真紅の双眸に含ませて、
「……なれるよ」
とちいさく頷く。
「灰色兎。君はもっと、強くなれる」
だって、君は僕が選んだファミリアー・スピリッツだから。
そう言って、銀色の薔薇をちいさな帽子に咲かせた漆黒の闇の主は、すこしだけ、ほんのすこしだけ、微笑んだ。
6周年記念の短編です。今回は番外です! |