召しませ、召しませ。
 召しませ悪夢。
 
 
 
 そこはおのれの指先すら見えない、暗闇。
 暗闇のそこかしこから聞こえるようなその声音は、ほんの小さな羽虫の暗い囁き声のようで、気を遣らなければ気にはならないだろうが、気を遣れば遣るほどに耳に障る。
 しかし不意に、真白い手指の先で軽く押し潰されるように、それは途絶えた。
 けれどぷつりと途絶えた声音の代わりに、暗闇に仄かな灯りが生まれ、その周囲をぼんやりとした橙色の光の輪で切り取る。
 弱々しい光のなかに見るのは、獣を模した人形が無造作に転がされた白と黒のタイルで格子模様に配した床と、一見しただけで骨董だと知れる猫足の彫刻美しい長椅子。そして長椅子の片側の肘掛から垂れる、くすんだ臙脂色の絹天鵞絨だ。
 まるで、誰の記憶からも忘れ去られた豪奢でありながらも退廃的な玩具箱のように、積もる時と埃の匂いをわずかにさせて、それらは人の気配のない暗闇にひっそりと横たわっていた。
 じっと、息をひそめるように。
 しかしふと、音もなく光の輪の中心にある蝋燭の炎が揺れた。
 光にまるく切り取られた沈黙の世界が、滲む。
 ほぼ同時に、床にまで垂れていた絹天鵞絨が長椅子へと引き上げられた。
「……お腹、空いた」
 ややあって、ぽつりと生まれたちいさな音。
 その音を吐き出した長椅子の上にあるものは、緩慢な仕草で絹天鵞絨をぐるりとおのれのちいさな身体に巻きつけた。
 呻き声のような、溜息のような。吹けば消える蝋燭のか弱い炎のようであるそんな声を絹天鵞絨の内側から漏らしながら、声の主は長椅子の上で身悶える。
 すると、
「飯だ、飯! なんか喰いに行こうぜ!」
 弾けたような甲高い声が、格子模様の床の上から聞こえた。次いで、
「今宵は月も出てない。狩りには都合がいいだろう」
 抑揚のない生真面目な声が、やはり床の上から。
 そうしてまずはむくりと起き上がるのが、そこに無造作に転がされていた黒猫を模した、裾長い軍服のような黒のコートを羽織った人形だ。
 金色に光る硝子の目は、左にひとつだけ。
 まるい顔の右側を斜めに走る縫い目は、どうやらざっくりと鋭い刃物で切った痕を処置したものらしく、右目はその際に失ったままであるようだ。
 黒猫は傍らに落ちていた眼帯を綿の詰まったちいさな両前足で器用に拾い上げると、失った右目の痕を隠すように黙って取り付けた。とたん、
「この際、月がどうとか関係ねえ、飯ったら飯ぃっ!」
 ぽおん、と勢いよく跳ね起きた灰色の毛の塊に、突き飛ばされる。
「腹減ると綿が絡まるっつーの!」
 派手に突き飛ばされて床に伏してしまった黒猫の背に編み上げの半長靴を履いた片足を乗せ、やはり綿のつまったまるい右前足を突き上げているのは、黒猫同様にさきほどまで床に転がされていた灰色兎を模した人形だった。
 こちらは、黒く裾短い上着をひっかけた、腹の左側から綿をはみ出させている姿。
 上着に付属している帽子は、兎の耳のかたちに揺れている。
「……意味がわからない。そして、貴様。その足をどけろ」
 黒猫は、ぐ、と両前足を支えに身体を起こし、上に乗っていた灰色兎をふたたび床に転がすと、静かな怒気を孕ませた低い声音を吐きつけた。
「貴様は品格と教養を感じさせる言動がとれないのか」
「え、なにそれ喰えんの。美味しいの?」
 ころり、と転がる床の上から青い貝殻ボタンの瞳で見上げてのその灰色兎の言葉には、明らかな挑発の響きがある。そして、
「喰えるものなら、貴様の堕落したその口に厭というほど詰め込んでやるものを」
 低く吐き捨てる黒猫の言葉に、どこか嬉しげに灰色兎が勢いよく床から跳ね起き、
「あぁ? っていうか、なに? 喧嘩売ってんの? またずったずたに切り刻んでやろうか、オラァ!」
「それはこちらの台詞だ。そのふざけた長耳、切り落としてくれる」
「やれるもんならやってみろよ、クソ猫! 今度は左目もいただいてやるぜっ!」
 甲高い笑い声とともにそう言い放った灰色兎は、身軽に跳ねて後方転回し距離をとりつつその右前足に、どこからともなく取り出した銀色のカッターナイフを握った。そして、ぎちぎち、と音を立てておのれの身長の半分はあるだろう得物の薄い刃を出し、丸く愛らしいはずの顔を凶悪に歪めて、構える。
 その灰色兎の、裾に銀糸でステッチが施された短い上着の飾りボタン、金色の光る硝子製のそれを、ちら、と残る右目で見やった黒猫は、
「ふん。取り返そうと思えばいつでもできる。どうやら、貴様の相手など片目だけで充分だということが、そのちいさな頭では理解できんようだな」
 床に落とされたままだった金色の装飾華美な洋裁鋏を拾い上げ、そうちいさな鼻を鳴らして嗤った。
「その無駄にふわふわとした丸い尻尾も切り落としてくれる」
「なんかの冗談で切り落としてくれちゃったら、てめぇの頭に飾ってくれよぉ? ちょー似合わなくて笑えるけどなっ!」
「迷うことなく暖炉にくべてやる」
 まんまと灰色兎の挑発に乗り、くるり、と器用に右前足で洋裁鋏を一回転させた後両前足で構えた黒猫は、しかし次の瞬間、
「ふ、にゃぁぁぁあっ?」
 奇妙だが実に可愛らしい悲鳴を上げて飛び上がった。
 それまで縫いぐるみふたりの争いにはまったくの無関心で、ただ長椅子に蓑虫のような姿のままごろごろとしていた、この暗闇のちいさな主たる存在の下ろした足が、運悪くちょうど下ろした先にあった黒猫自慢の長くふさふさの尻尾を踏みつけたのだ。
「……あー。ごめん」
 主は抑揚なくつぶやくように謝り尻尾の上から黒く光る厚底の靴を上げると、怠惰に煙るふたつの赤い瞳でもって、洋裁鋏を放り出し尻尾を抱えて俯く黒猫の姿をじっと見下ろす。
 黒猫は、すっとんきょうな悲鳴を上げたあとは、悲鳴を上げたこと自体を恥と思い、ただただ無言でじっと痛みに耐えていた。
「え、ちょ。ソレわざとぉ?」
 派手に暴れ回ろうとしていたというのに出端をくじかれたかたちの灰色兎は、長い耳をぐったりと前に倒して項垂れた。
 すると、ちら、と赤い双眸だけがそちらへと動く。
「……違う。どうでもいいけど……猫背」
「なんだとコノヤロー! ふざけたこと抜かすんじゃねぇ! 俺様がクソ猫なわけがねぇだろ!」
 猫背、と言われて頭に来たらしい、灰色兎が荒々しく跳ね上がり、寝起きであちらこちらが跳ね上がっている黒髪の頭を力いっぱい叩く。
「……痛い」
「痛いわけねぇだろ、このウスラボケ! 俺様の黄金の右前足は、黄金製じゃなくて可愛らしい布と綿でできてんだからよっ!」
「……うー」
 面倒そうというよりはどうでもよさそうに呻いた主の顔は、白い。まるで太陽の光など浴びたことがないというほどに白く、そしてどこか冷たく虚ろだ。顔かたちはといえば、まだ幼さが濃く残るその顔は精巧につくられた少女人形のように美しく整い、大きな瞳のせいもあってか愛らしくも見えるというのに。
 だからこそ、他者の目には愛らしくありながら不気味にも映る。
 その、怠惰なさまで呻くあとは座ったまま特に行動を起こそうとしない無気力な主の姿に大袈裟な溜息をついた灰色兎は、しかしボタンの瞳に怯えや苛立ちなどを滲ませることもなくひょいと長椅子に飛び乗り、クッションの隙間に落ちていた櫛で跳ねる短めの黒髪を梳りはじめた。
 その灰色兎の前足により整えられていく黒髪には、一部赤い色が染め入れられた部分がある。前髪のひと房と、白くやわらかそうな頬をそっと抱えるように流れるあたりの、ひと房だ。
 主の双眸は、最高級の紅玉とおなじく、鳩の血色をした真紅。
 それくらいしてやらなければ、滅多に感情を浮かべることのないひやりとした容貌はあまりにも愛想がない、とその瞳の色に合わせて灰色兎が染め入れたものである。
 口は悪いがなんだかんだいいつつ面倒見のいい灰色兎を、痛みから回復した黒猫が無言で見上げた。
「んだよ。見てんじゃねーよ」
「……ふん」
 厭そうに口もとを歪めた灰色兎に鼻を鳴らし、黒猫も主の身支度を整えるために、白いブラウスと黒の半端丈のクロップドパンツ姿でぼんやりと座っている主の隣りへと音も立てずに移動する。
 足もとに落ちていた黒いネクタイは、控えめなフリルとレースに飾られた大きな襟の下に通し、蝶結びに。背もたれに掛けられていた、縁に金銀の縫い取りのある黒いベストを着せ、さらにおなじ縫い取りのあるやはり黒いジャケットを着せる。
 そのころには髪を整え終わっていた灰色兎が、主の頭に黒い鳥の羽根と金銀の花のコサージュがついた黒のミニシルクハットを乗せ、細くちいさな顎の下でリボンを結んで固定した。
「さて、と! そんじゃ、飯食いに行こうぜ!」
 いつものように手際よく身支度を終えた灰色兎は、ぐい、とされるがままである主の腕を引き、勢いよく飛び跳ねた。そしてそのまま、
「……あ……痛い……」
 勢いにつられて長椅子から転がり落ちた主のことなどまったく気にせず、ずるずると床の上を引き摺っていく。
 そのあまりにもいつもの光景に、黒猫ももはやなにも言わない。
 ただ黙って、揺らめく蝋燭の炎の輪から外れたあたりに立てかけられていたものを手にし、ふたりの後を追った。
 鮮やかに彩られた玩具箱のような子どもの夢の端を刈り取る、その闇色の大鎌を持って。
 
 
 
 
 子どもたちの夢の欠片が、糧となる。
 それもなるべく楽しいものがいい。なるべく幸福なものがいい。
 だから、刈り取った夢の端に、ほんのちいさな闇の箱を置いていく。
 悪夢の欠片を忍ばせる。不思議で奇怪しい、玩具箱。
 夢から覚めたそのときに、揺り起す母の胸で安心できるよう。
 つぎもまた、楽しく幸福な夢が見られるよう。
 
 だから。
 
 ひどく魘されるも目覚める気配のない子どもの額を撫でて、常は人形のようにひやりとした無表情であるその顔に、主はわずかな感情の動きを示した。
「ダーク?」
 一瞬眉を寄せただけのその仕草を目敏く覚った黒猫は、忍び込んだ先の家の子どもが眠る寝台へとよじ登る。
 どうかしたのか、と主の呼び名を口にするが、真紅の双眸はすでに眠たげなさまでよそを向いた。
「どーも、誰かが荒らしていやがるみてーだな。てめぇがのんきにぐーすか寝くさってっから馬鹿にされてんだぞ、ダーク!」
 かわりに答えたのは、窓辺に飛び乗った灰色兎だ。好戦的な長耳が、月のない暗い空を背景にぴんと立てられている。
 黒猫は、いまにも子どもの隣りに潜り込んで眠りそうな主を横目に、眠りながら苦しそうに泣きはじめる子どもの顔を覗き込んだ。
 幸福な夢を根こそぎ狩られた痕が、硝子製の金の隻眼に映った。
「寝てんじゃねえよ! 喧嘩売られてんだぞ! わざわざ俺らの縄張りを荒らすってこたぁ、そういうことだろうが! オラ、起きろ!」
「……うー」
 灰色兎が主へと手近な絵本を投げつけるが、わざと外したのかただの偶然なのか、ごろりと寝がえりをうった主の頭のすぐそばに絵本は落ちる。
 艶やかな黒髪が、白いシーツの上にぱらりと流れた。
 絵本に見向きもしない紅玉の瞳が、眠たげにゆるりと閉じられる。
「縄張り荒らし即ち糧の横取りは、禁じられた行為だ。荒らしている奴らを早々に見つけ、それ相応の処分をしなくてはならない」
 黒猫は絵本を元の位置に戻すと、面倒くさい、と口癖のひとつを返事として呻く主のほっそりとした肩を揺らした。
「動けなくなってもいいのか、ダーク」
 ただ暗く冷たい闇の床に永遠に転がっているつもりなのか、と。そうわずかに顔をしかめて低く言う。
 すると、ゆっくりと仰のいた主の睫毛が漆黒の蝶が翅を広げるように動き、その下から虚ろな真紅の双眸が現れて、
「……別に」
 相変わらず抑揚なく、主は短く言った。
 そのあまりの怠惰ぶりに、黒猫は思わず絶句する。
 何を考えているのか、わからない。いや、何も考えてはいないのかも知れない。
 黒猫はただ、片目でなんの表情にも彩られない主のちいさな顔を見下ろした。
 すると、さすがに居心地が悪くなったのかそうではないのか、主は無表情のままでゆっくりと身体を起こし、黒猫のわきをするりと抜ける。そして、三日月のかたちをした漆黒の刃を下にして寝台の傍に立てかけてあった大鎌に、白く細い手指を伸ばした。
 黒い柄を、そこに結ばれた金銀の縫い取りのある黒いリボンごと掴み、それを支えに寝台から滑り下り、立ち上がる。
「……行こうか」
 ここにはもう、用はないから。
 そう言って、漆黒の三日月をずるずると音を立てながら引き摺り歩く主を、黒猫と灰色兎は無機質なボタンの瞳で黙って見つめた。
 しかし、そのまま棲み処へと帰るのか思えば、主にはその気はないらしく。
 よいしょ、と年寄りくさい台詞を呟きつつ二階の窓から石畳の上へと、ぼとり、とほぼ落ちるようなさまで飛び降りた主は、そのまま大鎌を引き摺りながらふらふらと足取りまで面倒そうに闇のなかを歩んでいく。
 黒猫と灰色兎は顔を見合わせると、後を追うために揃って窓からぽんと飛び降りた。
 しばらく黙って、先を歩くちいさな背中を見つめていると、夜道の真ん中で不意に主がその足を止める。
 夜の女王の吐息を受けて、静かに、黒く艶やかな髪が耳もとで揺れた。
 それと同時に、黒猫の横に伸びたひげと灰色兎の立ち上がった耳とが、微妙な空気の震えを拾う。
 異音として伝わる、震えを。
「あっちから来やがったか」
「それともダークが向かったのか」
 どちらにせよ縄張り荒らしが現れたようだ、と黒猫は細く威嚇音を吐き出し、灰色兎はまるい顔を凶暴に歪めた。
 直後、疲れた、とでも言うように振り返らないままその場にうずくまった主のすぐ頭上を、黒い影がふたつ勢いよく横切る。
 そのまま立ち尽くしていたなら、衝突し、弾かれていたかもしれなかった。
 しかしそれも気にならないのかそれともただ気付かなかったのか、主は声を発することも顔を上げることもしない。
 両膝に両肘をつき白い頬を支えてぼんやりしている主に向かって、ふたたび黒い影がふたつ、迫った。
「ダーク!」
「させるかボケェッ!」
 黒猫と灰色兎が同時に飛び出し、跳ね上がり、宙で主に飛びかかってきた黒い影たちと衝突する。
 甲高い派手な音とともに、よっつのちいさな影は石畳の上に着地した。
 黒猫と灰色兎の突き出した洋裁鋏とカッターナイフの刃には、がちり、と大きな肉切り包丁の刃と太く鋭いくちばしが喰い込んでいる。
「こんの、クソ鴉っ!」
 怒鳴る灰色兎の後ろ足が、カッターナイフの刃を咥え込んだ大鴉の胴体を蹴りつけ弾き飛ばし、洋裁鋏で肉切り包丁を挟んで受け止めた黒猫が、ぐ、と鋏を持ち上げると同時にピンク色の豚の細い足を素早く払う。
 弾き飛ばされ、足払いを喰らって一旦わずかに後退したふたつの影は、やはりどちらも人形である。
 紫のセーターを着た大鴉と、水玉模様の赤いスカーフを巻いたピンク色の豚。
 姿ばかりは愛嬌があるようにつくられてはいるようではあるが、それでも馬鹿にしたようすでこちらを見るさまと、豚が手にする肉切り包丁を目にしては、黒猫と灰色兎同様、単純に愛らしいとは言い難い。
 そのうちのひとつである大鴉が、かっ、と意地悪そうに大きくくちばしを開いた。そして、
「随分、みすぼらしいうさちゃんだねぇ。え?」
 脇腹から綿をはみ出させた灰色兎を嗤う。
 それは以前黒猫と喧嘩をしたさいに洋裁鋏で抉られたままの、補修していない傷だ。
「……貴様」
 相棒を嗤われた黒猫は、思わず尻尾の毛を逆立てた。
 自分がつけた傷ではあるが、ほかの連中にそれを嗤われるは不愉快だったのだ。
 なぜならその傷は、黒猫のいまは眼帯に覆われた部分にあったものと、引き換えのものであるから。しようと思えばできる補修をしないのは、いまも右目が灰色兎の上着に飾られているから。
 ぎっ、と洋裁鋏の刃の部分が軋んだ。
 しかし、
「うっせ! こっから溢れ出てんのは、綿と夢と希望だぜ! 悔しかったら抉れてみな!」
 煽られて頭に血を上らせた黒猫が飛び出すよりも先に、灰色兎がくるりと尻を向けてまるい尾をふわふわと揺らして見せた。
 相変わらず、意味がわからない。
 意味はわからないが、おかげで黒猫は我に返り、闇雲に飛び出そうとしていた足を止める。
 それを見て、ぶふっ、と今度はピンク色の豚が平たい鼻を鳴らした。
「そっちのねこちゃんは、おめめがひとつでかわいそうでちゅねぇ。もう片方もとってあげましょうかぁ? 飴玉みたいに舐めて、最後は噛み砕いてあげるぅ」
 ひゃらひゃらと、灰色兎が豚の笑い声を掻き消す勢いで甲高く笑い声を上げる。
「ふっざけたこと抜かしやがるぜ、ピンクの仔豚ちゃんはよ! いいんじゃねぇ? やってみればぁ?」
 長耳をがしがしと乱暴に掻き毟りながらそう言って、また笑い声を放った。
「その代わりさぁ、てめぇの太った腹ん中に前足突っ込まれて綿引き摺り出されても知らねえぜぇ? まあ、綿と一緒に出てくんのは、きったねぇ喰いかすだろうけどな!」
「汚い喰いかす……」
 それはたぶん、自分の目ではないだろうか。
 そんなことを思いつつ、黒猫は苛々と掻き毟られる長耳をちらと見やった。
 ぱらぱらと、短い灰色の毛が夜気のなかに幾本か散る。ストレスを感じているときにとる無意識な行動だが、このままだとはげてしまいそうだ。
「やれるもんならやってみなよ。おまえさんたち、夢が足りなくて腹が減ってるんだろう? 空っぽの身体じゃぁ、満足に動けないだろうがね」
 大鴉がくちばしを鳴らして嗤い、大きな翼を広げて暗い宙へと舞い上がる。
 夢を横取りして喰った自分たちはこんなにも身軽だ、とそう見せつけるように。
「オイ、クソ猫」
 ぎちぎちとお気に入りの凶暴な音を立ててカッターナイフの刃を伸ばしながら、灰色兎が言った。
「何だ、馬鹿兎」
「おまえ、どっち」
「おまえはどっちだ」
「俺様はどーっちでもイケるぜ」
「では、鴉だ」
「おうよ。羽ちょん切って、喰っちまいな!」
 無言で頷く黒猫は、豚を相棒に任せると、後足二本だけで素早く移動して建物の屋根へと上がる。
 その暗い夜に駆け上がったひとつまるく浮かぶ金色の光を流し見つつ、灰色兎のほうも行動を開始した。
 黒猫ほど素早く動けない豚など、たとえ得物の大きさが違ったとしても、なんの問題もない。灰色兎がぐるぐると周囲を飛び跳ねながら回ると、呆気なく目を回しはじめた。
 そもそもまるく太った身体に細い足だ。少々バランスが悪い。その上、大きな肉切り包丁を灰色兎の動きを追って振りまわすものだから、ぐらり、と豚が体勢を崩すのにそう時間はかからなかった。わざわざカッターナイフの刃を折っては飛ばす必要もない。
 どうやら豚のほうは闘い慣れてはいないらしい。とはいえ、ファミリアー・スピリッツ同士が常に喧嘩しているという環境でないのなら掟を守ってさえいれば普通は戦闘になどなるはずがなく、それが当たり前といえば当たり前ではあるのだが。
 力強い後足での蹴りで呆気なく、ぴぎゃっ、と叫んだ豚を石畳に転がした灰色兎は、
「いっただっきまーす」
 カッターナイフの刃を、ピンク色の太った腹の上で踊らせようとした。
 そうして腹に詰まった綿をひっぱりだしてやろうとしたのだ。
 しかし不意に、ぴんと立てていた右耳が風の唸りを捉える。
 咄嗟に素早く攻撃から防御へと転じて身構えようとした灰色兎は、しかしそのほんの一瞬まえに、自分のちいさく軽い灰色の身体が横殴りに弾き飛ばされたのを自覚した。
 声なく弾かれ、路地向こうに積み上げられた木箱やらに次々に身体を叩きつけられる。
 そして、
「っ!」
 ぽんぽん、と綿が転がる軽い音とともに相棒の姿が闇の向こうへと飲み込まれていったのに気付いた黒猫は、屋根の上で鋭く息を飲んだ。
 そのわずかな隙を狙って、高く舞い上がっていた大鴉がこちらめがけて急下降してくる。
 しかし間一髪でそのくちばしによる攻撃を、横に身体を捻りながら跳んで避け、長い尾でバランスを取りながら器用に狭い屋根の上に下り立つ。
 相棒のことは気になるが、そう簡単にやられるほど軟弱でもない。それよりも、先ほどから羽ばたきうるさく宙を逃げ回る大鴉が目障り。
 そう、ふたたび金色の洋裁鋏を構えなおすとすぐさま闇を蹴り、方向転換してまた向かってきた大鴉へと凄まじい速さで駆け寄る。
 黒猫は突き出された太いくちばしの一撃を鋏の一方の刃で受け止めた直後、すばやく鋏の支点部分の螺子を飛ばして二本の刃をばらし、さらにくちばしを受け止めていない側の刃に持ち替えてそれを剣のように振るって、
「ぎゃっ!」
 鋭い音を立てて、黒い翼の片方を斬り落としてしまう。
 片翼を失い宙でバランスを崩した大鴉が、黒い羽根と綿を撒きながら屋根の上に叩きつけられ、そのままごろごろと転がっていく。
「それで? 貴様らは一体誰のファミリアー・スピリッツだ」
 転がる大鴉をゆっくりと追いながら、どこの使い魔か、と元に戻した洋裁鋏を手に黒猫は問う。
 しかし、
「ブラッドだよ」
 そう答えたのは、ばさり、と屋根から落ちて石畳に落ちた大鴉ではなかった。
 はっ、と声が聞こえた背後を振り返り、黒猫は全身の毛を逆立てる。
「まぁ、覚えてくれなくてもいいけどね」
 黒猫の上げる威嚇音を鼻で嗤ってそう肩を竦めてみせたのは、長い銀髪を揺らし真白を纏った夢喰いだ。
 チュールやらフリルで飾られたスカートに、平らな胸から細い腰を編み上げるコルセット。長手袋に、ブロックのような厚底の長靴。
 その全てが、真白だった。
 ただひとつ、やはり赤く輝く双眸を覗いては。
 黒猫と灰色兎の主であるダークよりもいくらか年上のような容姿で、うっすらと化粧の施された顔はどこか色香も漂うようだ。
 ブラッド、と名乗った真白い闇の主は、全身で威嚇するちいさな黒猫を残忍な愉悦を滲ませる、ややダークよりも浅い色合いの双眸で冷たく見下ろし、
「随分戦闘慣れしたファミリアー・スピリッツだね。でも、邪魔だから退いていてよ」
 言うなり、その片手に携えていた白銀の三日月型をした大鎌を、黒猫めがけて振るった。
 光る鋭い刃が凄まじい勢いで押し寄せる様が、金の隻眼に映る。
 とっさに上げた洋裁鋏は、しかしなんともあっけなく弾かれ、黒衣の生地が裂けた。
 瞬間、黒猫はまるい顔を歪める。
 布と綿でできた身体はどれだけ傷ついても、木っ端微塵にされない限り修復は可能だ。しかし、闇の主の大鎌によって裂かれた魂は、長い断末魔を夜闇に響かせるだけであとには何も残らない。二度とは戻らない。
 気だるい闇のなかにある、代わり映えのない、切り離された空間。
 静止する時計の針、脈動する蝋燭の火。
 喧嘩ばかりの黒白、熱のない怠惰な真紅。
 くだらない会話、かすかな苛立ち。
 そのすべてが、戻らない。
 二度と。
「……っ」
 黒猫の腹の生地が、裂けた。
 中に詰まっていた綿が、裂けた部分から弾けるように飛び出す。
 大鎌のまえではちいさな身体は、ひどくあっけない。
 悔し涙などというものは溢れるはずないのに、無機質な硝子のボタンが熱くなった。
 しかし、そのとき突然、ぴたりと白銀の刃が動きを止める。
 何だ、と弾けた腹を押さえ顔を上げた黒猫は、目のまえに忽然と現れた艶々とした黒い靴を履いたちいさな足を見て、次の瞬間、呆然とした。
「……ダーク……?」
 漆黒の大鎌を杖のように立てて持った主は、相変わらずの無表情のまま白銀の大鎌の柄を無言で踏みつけ、その動きを止めていたのだ。
 その腕には、襤褸のように擦り切れ汚れた灰色の塊を抱いている。
「く……っ」
 ブラッドと名乗った真白い闇の主が、大切な白銀の大鎌を取り戻そうと柄の先で押したり引いたりともがくが、しかし、漆黒の闇の主に軽く踏まれたままの白銀の大鎌は、ぴくりとも動かない。
「……ぁ」
 いまも零れ落ちる綿を押さえて黒猫がうずくまると、主はちらと黒猫のほうを見やった。
 いつものように怠惰に滲んではいない、しかし、感情の窺い知れない真紅の双眸で。
「ダーク……」
 主の名を呼ぶと、ずい、と黙ったまま腕に抱えていた灰色の塊を押しつけられた。雪崩れてきた生地と綿の塊を思わず両前足で受け取り、尻もちをつく。すると、
「……悪ぃ」
 塊が情けない声音でぽつんと呟いた。灰色兎だ。
 自慢の長耳の片方が千切れ跳び、千切れかけた腕は辛うじて数本の糸で胴体と繋がっているような状態。
「なんだ。しぶといな」
 それでも、魂は無事。
 生地と綿でできたちいさな身体のなかに広がる安堵に、それでも相変わらずの憎まれ口を黒猫がやっとのことで吐き出すと、灰色兎がにやりと頬のあたりを動かした。
 それからこちらにちいさな背を向けたままの自分たちの主を、見つめる。
 なにも、しないと思っていた。
 いつものように、面倒くさい、と呟くだけだと、そう思っていたのに。
「……知ってた?」
 不意に、主が白銀の大鎌を踏みつけたままでぽつんと言った。
「あぁっ? なにっ?」
 必死に大鎌を力任せで取り戻そうとしているブラッドが、それに怒鳴るように訊き返す。
「面倒だけど……知らないなら、教えとく。ファミリアー・スピリッツ同士の争いには制約なんてないけど、マスターが自分のじゃないファミリアー・スピリッツを消去することは許されてない」
「そんなの、知って……」
「知ってて……やろうとしたんだ?」
 へぇ、と主が抑揚なく呟いたとたん、周囲の闇が音を立てて凍った。
 まるで、怯え竦み上がるように。
 そんな錯覚が、その場にいる者の背筋を冷たく走る。
「……それと……」
 ぐ、と低くなる声音に、さすがにブラッドが白い顔を引き攣らせた。
「僕らが食べるのは、子どもが見る幸福な夢の、ほんの切れ端。代わりに置き去りにするのは、ちいさな闇の玩具箱。根こそぎ幸福な夢を食べておぞましい夢を子どもの頭に捻じ込むのは、マナー違反」
「それは、おまえが勝手に……っ!」
「勝手? そうかもしれない。でも、それなら味わってみるといいよ。自分で」
 ブラッドが、あっ、と声を上げる間もない。
 白銀の大鎌の柄を数歩駆け上がると同時に、主はちいさな片手でなんとも軽々と漆黒の大鎌を操り夜気を裂いて、
「お仕置き」
 そのまま一気に、ブラッドの胸を三日月形に湾曲した鋭い刃で真横に薙いだ。
 
 
 
 
 その大鎌が残酷なまでに鋭く刈り取るのは、血肉でも命でもなく、夢。
 きらきらと輝く、夢ばかり。
 子どもたちの頭から、心から、根こそぎ奪われていた夢は、まるい飴玉のような甘い色の星となって暗い空に降り。
 ころころと転がって、いたるところでちいさく弾ける。
 
「ダーク……」
 降り注いでは軽い音を立てて弾ける夢のなか。
 ずるずると大鎌を重たげに引き摺り先を歩くちいさな漆黒の闇の主に、まるで襤褸布のような散々な有様の相棒を抱え、自身もあちらこちらがちぎれ飛んだ姿の黒猫は声をかけた。
 背後には、裂かれた胸から夢を噴き上げる膝立ちの恰好で動きを止めたままの、真白い闇の主。
 血肉を絶つわけではない大鎌の一撃は、しかし、それでも夢を喰らう者にしてみれば大きな痛手となる。しかも主は、夢を狩られて、あっ、と声を上げたそのブラッドの口に、頭に、心に、ありったけの悪夢を捻じ込んだ。
 おそらく、ブラッドは正気に戻っても鏡を見ることすらできなくなるだろう。自分の赤い双眸を目にするたびに、自分のものに似て非なる漆黒の闇の主の冷酷な真紅の双眸を思い出すからだ。
 つついても蹴っても身体が反応しないくらいなのだ、それくらいの悪夢は喰わされただろう。
「ダーク」
 再度声をかけると、主はゆっくりと億劫そうに華奢な肩越しに黒猫を振り返った。
 ずり落ちそうになる灰色の塊を抱え直し、黒猫は毛羽だってしまった尻尾をゆるく振る。
「おまえが……その、動くとは、思わなかった」
 なにもしないと思っていた。
 ファミリアー・スピリッツとはいえ、こちらがたとえ消滅しても心も身体も動かさないのだと、そう思っていたのだ。
 そう伝えると、主は立ち止まり、黒髪を揺らしながらちいさく首を傾げた。
「……だめ?」
「え、あ……いや」
 のろのろと、感情の窺い知れない真紅の双眸でこちらを見ている主の足もとにまで寄る。
 ただじっと見下ろされて、気まずくなった。こうしてじっと見つめられることなど、これまでになかった気がするのだ。
「……そういえば、言ってたね」
「え?」
「動けなくなってもいいのか、って」
「あぁ……」
「僕は、かまわない」
 思わず言葉を失う黒猫に、主はさらに首を傾ける。
「……耳、下がってる」
 ちぎれかけた耳が下がっている、と言われて黒猫はちいさく唸り声を上げて主を睨み上げた。
「そんなことを、言うな」
「……耳?」
「違う」
「あー……そう」
「そうだ。ファミリアー・スピリッツは主があってこそ、だ。動けなくなられると、こちらも動けなくなる。それでは、困る」
 黒猫が尻尾を落ち着きなく振りながら言うと、突然、それまで黙っていた灰色の塊である灰色兎が、黒猫に抱えられたままひゃひゃひゃと気味の悪い笑い声を上げる。
「なんだっ!」
 毛を逆立てて塊を見下ろすと、灰色兎の青い貝殻ボタンの目がおかしそうに黒猫を見ていた。
「よぉ、クソ猫ぉ。前から思ってたんだけどよぉ、おっまえ、ツンデレだよなぁー」
「なんだそれは! どこの言語だ!」
「ダークもだけどぉ」
「……なにそれ」
「ダークさぁ、自分が動けなくなってもいいけど、俺らが動けなくなるとイヤだろ?」
 灰色兎にからかい口調でそう言われて、いつもは無表情か怠惰な主の眉がゆっくりとちいさく寄る。
「イヤだもんなぁ?」
「……うるさい」
「おまえ、俺らのこと好きだもんなぁ?」
 笑われて、とうとう主が白くやわらかな頬をぷくりとちいさく膨らませた。
「う、うるさいな」
 うるさい、とそう言いながら、主は突然腕を広げると大鎌を放り出し、代わりに布と綿でできたちいさな二匹の、ぼろぼろになって汚れたファミリアー・スピリッツをぎゅっと抱きかかえる。
「疲れたから、もう帰る」
「おうよ、運んでぇ。楽ちんー」
 ひゃっひゃと笑いながら、灰色兎は綿と布を主の腕に擦り寄せた。
「……お裁縫、できないから」
「知ってるぜぇ。おまえにやらせると、俺様のキュートなお耳が足の裏についちまう。これくらい、自分たちで直せるっつーの」
 笑う灰色兎とまとめて抱きかかえられた黒猫は、くしゃりとまるい顔を歪ませながら無言でされるがまま。何をどう言っていいのか、わからない。
 
 それでも、
 
「オイコラ、ダーク。ちゃんと夢の飴玉喰ったかぁ?」
「……まだ」
「ちゃぁんと喰えよー。俺らが動けなくなっちまうんだからな」
 わかった、と素直にうなずく主の両腕はしかし、黒猫と灰色兎を抱えていっぱいだ。
 しかたなく、黒猫はちょうど降ってきた夢の欠片を擦り切れた前足で受け止めると、それを主のちいさな口に放り込む。
 かろん、と。
 主の口のなかで、夢が軽やかな音を立てた。
 青白いほど白かった頬が、ほんのりと甘い夢の色に染まる。
「帰ろう、ダーク」
「っていうか、俺の耳、いっこ知らね?」
「知らん」
「おっまえ、ツンデレー」
「何か知らんが、違う。断じて違う」
「ツンデレ、ツンデレー。って、ああっ? ダーク! オイコラ、おまえ、大鎌忘れてんぞっ! 拾えー!」
「……めんどくさい」
「おーまーえーなー!」
 
 綿しか詰まっていないはずの身体のなかが、温かい気がした。
 
 
 あの日。
 ざあざあと、大粒の雨がうるさく叩きつけていた。
 ぐっしょりと雨と血に重たく濡れた、毛の塊。
 突然襲った衝撃に、きつく轍(わだち)を刻んだ路の端に横たわって、覆い被さる苦痛と孤独とに絶望していた。
 なにがどうしてこのようなことになったのかは、わからない。
 ただ、拉(ひし)げて落ちた身体はもはや、動かそうとも動かなかった。
 潰れて溢れて、そのまま雨に流されていくのだろう。
 血も熱も、魂さえも。
 ゆるりと遠ざかりつつある意識のなかで、それでも絶望の足音にも聞こえる雨音を数えていると、不意に濃く影が差した。
 腹を空かせたなにかだろう。
 あぁ、喰われる。
 そう思ったのに。
「……生きたい?」
 熱のないちいさな声音が、雨に混じって降ってきた。
「生きたいなら……僕の、ファミリアー・スピリッツになってよ……」
 
 一緒に、生きてよ。
 
 ただじっと、真紅の双眸がこちらを見下ろしていた。
 ひとつが終わって始まった、あの日。
 
 
 
 召しませ、召しませ。
 召しませ、
 甘い、甘い夢。
 
 
 
 

The Dark 目次
 三周年記念の短編……だったはずのブツです。
 キャラの設定だけつくっていたものを、ようやく書きました(≧へ≦;)
 なんとなく黒猫さん視点のようですが……なるべく彼の頭の中を書かないようにしました。
 あと、メインは戦闘シーンではないので、そこはあっさりめに。
 灰色兎さんと黒猫さんを「使い魔」と呼ばずに「ファミリアー・スピリッツ」と呼んだのは、
 ダークたんとしてはそのほうが家族っぽくていいかな、って思ったからなのです。    2011.4.17
 
   
 

 

inserted by FC2 system